紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

「私はこの最後の人にもおなじように支払いたいのだ」

夜の静寂の中にいまバッハのチェロソナタが響いている。無伴奏チェロ組曲はサラバンドやジーグという舞踊の曲で構成されているが、私にはまるで夜の中へどこまでも流れてゆく川のような気がする。一日の忙しい時間のおわりに、この曲を聴くと自分の中で乱れていたものが静かに整えられてゆく感じがする。
ひとつの思い出とこの曲は結びついている。亡き夫の、病篤き日々、廊下の突き当りにあった寝室のドアが閉まっていて、耳を済ませるとこの曲が聞こえてきた。一人で旅立とうとしていたあの日々、夫の心にこの曲はどんなふうに響いていたのだろう。
夫は生涯聖書を読み続けていた。彼の人生はイエスという存在についての傾倒そのものだった。出会ったばかりの頃、彼は「イエスは実に奇怪な奴なのです、」と私に手紙をくれたことがあった。またあるときはこんな手紙をくれた。

「やがて夜の三時です。
今日古本屋で買ってきました、赤岩栄主宰の「指」の七冊をパラパラ読んでいるうちに 眼がズキズキ痛みだし、しばらく庭に立っていました。
そらは真っ暗な宇宙の深淵。
晴れわたって澄んでいて、月は西に隠れちまったので、星がきらめく星、かすんだ星、など、静かに動かずかがやいていました。そこには三千光年の彼方に在る天体もあるのですが、ぼくは一つのきらめきを見詰めながら呟きました。
〈三千光年のあの星にとっては地球のイエスキリストはまだ誕れてもいないのだ〉
〈いったいこの世界が神という頭部につらなる肢体部分であるならどうやってこの部分に生じた出来事が首に伝わって行くのだろう?〉
〈ヒトの末梢神経は秒速数十メートルで脳髄へ伝達するのだとして、さて、天体上の出来事は何を媒介としてどんな速度で神の脳床に至るのだろう〉
〈光線に伝えるのだとしたら、わずか二千年前に生じたイエスのことは,無限のかなたにいます主はまだご存じない。とすると、神は生きながら眠っているも同じ事になるが、そんなことがあるだろうか。神は生きている、してみれば光線にまさる飛脚が在るということだ、それは何なのだろう?〉
そしてぼくは世界現象の一切をくまなく知悉し洞察し営為する、燦然たる神、無限の霊を愛と呼び、愛こそ知性、精神、にまさる能力であると痛感しました。
現代人は愛の不毛や空しさを説くのが上手ですが、しかしぼくは、現代人三十億人に抗しても、愛がこの現象世界の根源をなしている事を確信します。
存在の世界、これは愛のヴァリエーションであって、だからこそ、シュバイツアー、テレジア、聖フランチェスコのような人間が当然のことのように現れるのですし、また、愛の欠落として、ネロ、ヒトラー、アイヒマン達が大地を横切ってゆくのです。
この小さな奇異な星に現れた人間存在は、いったい何のために現れるのでしょうか。
(ああ賎香さん、この答えを知りたいですか!)それは「愛のため」です。幸福になるためでも、芸術や事業に没頭するためでもありません。こんなことはみんな「愛さんがため」の手段にすぎないのです!
こういう狂熱を実践したひと、あらゆる冷酷に苛まれつつも愛を勝利させたひとがいます。イエス・キリストです。ぼくはイエスの影にすぎない!
否、そのまた影にすぎない!
しかしぼくはイエス死んで二千年を経んとする現代に棲む、その狂人なんだからなあ!
ぼくは愛さんがために在りたいのみ! ……」
これは二十六歳の時の手紙だ。彼はいつもこんな手紙をくれたものだった。だがついに洗礼をうけることはなかった。教会というこの世の組織の枠からはみ出していたのかもしれない。亡くなる少し前に私にカトリックを勧めてくれたのだが。私は夫に洗礼を受けるように勧めた。しかし、彼は言を左右して、受け入れようとはしなかったのである。
その理由は「今になって洗礼をうけるのは厚かましいから」というのだった。

夫が逝って十四年になる。私は今聖書を読む会「聖書百週間」に参加して人々と感想を分かち合っている。 今はマタイによる福音書を読んでいる。
この福音書は、他の福音書同様、沢山の喩え話が書かれている。イエスは多くの説教を喩え話の形で語ったのだ。それが何を意味するのか、さっぱりわからない喩えもある。昨日私が読んだところには、こんな喩え話が書かれていた。―あるぶどう園の経営者が労働者を一デナリオンで雇う。早朝から働いた者、九時、十二時、午後三時、そして夕方五時頃にも人を雇う。そして報酬として一律に一デナリオン支払うのである。最初に雇われたものは当然不平を言う。「最後に来た人はたった一時間しか働きませんでしたのに一日中労苦と暑さを辛抱した私達と同じように扱うなんて」と。しかし主人は言う。「友よ、あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。あなたの分を取って帰りなさい。わたしはこの最後の人にも、あなたと同じように支払いたいのだ。」
この喩え話もわからない話である。わからないのは、人間の尺度で読み取ろうとするからだろうか。主とは神のことであり、その報酬は神の救いの恵みであろうとは思う。「聖書百週間」の私達の導きをしてくれたシスターは去年亡くなってしまった。シスターの教えを書き記したノートには、朝早くから働いた人はユダヤ人、後からの人は異邦人という解釈が書かれている。確かにユダヤは数千年の長きに渡って神の教え「律法」を厳しく守ってきた。だからといって、つい最近信仰に目覚めた異邦人に恵みがないということはまったくないのである、ということだ。
なるほど、マタイによる福音書が書かれたAD八十年頃のイスラエルの時代背景はユダヤ系のキリスト者と異邦人(主にギリシャ人)系のキリスト者が対立していた。
ユダヤ人たちは律法に書かれている細かな規則とりわけ割礼を振りかざして異邦人キリスト者を見下げ、迫害した。イエスはそれらのユダヤ人たちに向かって最も大切な律法の教えは「愛である」であると語っている。(マタイ五章四三節以下)さらに申命記のなかにある、「心を尽し、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」という言葉こそ律法の中で一番大切な掟だと語っている。(同二二章三七節。これは申命記六章五節に書かれている) それに続けて、「隣人をあなた自身のように愛しなさい」というイエスの有名な言葉が続く。この言葉はレビ記十九章十八節にある。

こんな考え方もできるかもしれない。
この喩え話では朝早くから働いていた人は幼児洗礼を受けた人である。その人は小さい時から神の掟を深くまもり、神に愛され、守られて生きる。夕方から働く人は歳をとってから洗礼を受ける人である。この喩え話によれば、幼児洗礼を受けた人も、歳を取ってから受洗したひとも、報酬―神の恵みーはひとしいというのだ。
この喩え話によればもう遅すぎるという時は人生にはないことになる。たとえ死のまぎわであろうと、その人がうける恵みは変わらない。あのとき、この事を夫に話したら、彼は何と言っただろう。洗礼を受けただろうか。「厚かましいから遠慮しておく」となおも言っただろうか。いや、あんなにイエスを想いつつ人生を過ごしたのだから洗礼を受けなくても彼は神に愛されていたにちがいない。
彼のいなくなった地上にまた春はめぐってきて、黄色いミモザも咲き満ちている。優しく烈しく明るくチェロ組曲が鳴り続けている。