紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

短歌を始めてまもなく十四年になる。その全ての歳月を桜井登世子師の薫陶を得てきた。。そしてやはり桜井登世子は稀有な歌人であり、書きとめておきたいことが沢山あることを改めて感じている。手元に六冊の歌集がある。『海をわたる雲』(一九八一年)、『冬芽抄』(一九八八年)、『夏の落葉』(一九九二年)、『雁渡る』(二〇〇〇年)、『ルネサンス・ブルー』(二〇〇三年)、そして、現代短歌文庫所収『桜井登世子歌集』。(二〇一五年)
第三歌集『夏の落葉』(不識書院刊)により、第一回ながらみ現代短歌賞を受賞した

第一歌集『海をわたる雲』は桜井登世子五十二歳の時(一九八二年)に出版された。
桜井が初めて近藤芳美に会ったのは、一九七一年、(四十一歳の時)「未来」に入会して直ぐの歌会の席上だった。「あんたどこに住んでいるのかね」と聞かれ、「吉祥寺です」と答えたところ、「うちに来なさい」と言われたとのこと。当時は練馬にあった近藤の自宅が「未来」の編集会議の場であった。桜井登世子はそのままずっと編集に携わることになったのである。おそらく才気煥発な雰囲気が近藤の目に止まったに違いない。
桜井登世子は多感な少女期を教職にあった父親とともに韓国の光州で過ごし、敗戦の年に引き上げてきた。そして近藤にとっても光州は銀行員であった父親の赴任先で、夏休みを一夏帰省して過ごした地である。近藤の妹と桜井登世子は光州の同じ小学校を出た。未来誌に掲載された「綿の実の畑」一連を読んだ近藤は新しい会員桜井登世子の来歴を初めて識る。「綿の実だって?あんた光州に居たのかい!」後年、桜井が未来の近藤選歌欄を受け継いだこと、その最期を家族のように看取り、そして近藤の遺歌集を編んだことなどに思いを馳せる時、あたかも目に見えぬ手によって運命的な出会いが密かに準備されていたかのようだ。
近藤は光州とのかかわりについて『海をわたる雲』序文の中で次のように語る。
「その光州の町に、わたしもまた郷愁と呼ぶべき遠い記憶がある。父が銀行の支店長として赴任していたことがあり、夏休みを、一夏だけ帰省して過した。昭和六年、広島の旧制高等学校生となった年だから、桜井さんはまだ生まれたか生れないかのころであろう。朝鮮半島の西南部、湖南平野の広袤とした沃野の中の小都市であった。」
綿の実の白く爆ぜたるそのしろき実を摘みたるもとおきことかな
『自歌自注 相聞』   (短歌新聞社編)
たどりゆく地図に想いの異なりて白き綿の実の畑ありしところ
諸手にて掬えるほどの地図の中わが思い出の限りなき町
短歌研究社編の『自歌自注 相聞』にはこのような歌が詠われている。そして、桜井は次のように書いている。
「父の仕事の関係で転々と居住地を換えた私には、移り住んだ土地風土がふるさとでもあり、思郷の想いと重なって人々は甦る。(中略)少女期を過ごしたここ朝鮮半島の秋空は殊更に蒼く高かった。一面に綿畑の続く郊外では一せいにまっ白な綿の実が爆ぜ、新雪にも似たその純白の実はあたかも人との出合いのようでもあった。敗戦によって私達はこの地を追われ、ひとりの少年とはそれっきり会うこともないが綿の実の白さは青春のかなしみを曳きながらいまも人を想う私の心の底を流れる。」
光州は全羅南道(朝鮮半島南西部に位置する行政区)の道庁があった。日本統治時代の日本の行政区の一つ。当時ここは日本人居住地で、銀行や学校なども日本人のためのものだった。穀倉地帯に位置し、棉花や米、のり、果物が豊富にとれた。ポプラの木が風になびく美しい町であり、煉瓦作りの小学校等の建物は現存しているという。朝鮮の人々はこの町の郊外に住み「オモニ」と呼ばれる女性が家事をしにきていた。近藤は序文の中で次のように続けている。
「敗戦の後、その地を追われるようにして引揚げて来た思い出は暗いかもしれぬが、ひそかに抱きつづける郷愁の感情は別であろう。わたしと同様に、多分桜井さんもそれから逃れることは出来まい。」
心せきて解く荷に透けるチマとチョゴリ薔薇の模様のサーモンピンク
(『海をわたる雲』)
今宵恋しく光州はあり幾年を住みつつチョゴリもチマも着ざりし
敗戦とともに日本へ引き上げてきた。作者十五歳。言語に絶する引き上げの苦労を経験した。『海をわたる雲』後書きには、次のような言葉が書かれていた。
「私は現在の韓国光州で敗戦を迎えた。どんでん返しになった私達は、絶望と明日への不安を抱きつつ故国へ帰る日を待ちさまよった。
八月十五日、植民地の重圧から開放され、革新的な思想のつよかった光州の町は独立の歓喜に満ち溢れた。道庁前には戦勝アーチがつくられ、武徳殿からは毎夜豊年踊りの太鼓の音が聞こえていた。」
重圧から開放されて喜ぶ人々。日本人は重圧を加えていた側である。「それはもう、こわかったですよ」と。光州はいたたまれないほど恐ろしい空間に変わってしまったのである。だが現地で、朝鮮人のための小学校で教師をしていた父親は土地の人々に敬愛されていた。
日本に還るなと父に言い呉れし教え子ら反日感情高まる中を (同)
日本人をかくまえばどのような目に会うかも分からない中での人々の好意であった。その好意に甘えるわけには行かなかった。

後になって、作者四十三歳の時、かつての同級生たちとふたたび光州を訪れた。この時の経験が『海をわたる雲』の大きなテーマともなっているだろう。後書きに次のように書かれている。
「一九七三年九月、私は二八年を経た光州の土を再び踏んだ。この歌集の第Ⅰ部「綿の実の畑」の後半部に当る作品がそれであり、第Ⅱ部の「高田馬場まで」はその訪韓後朝鮮語を習い出すところからはじまるのであるが、この朝鮮語学習は訪韓の折の深い悔悟に端を発する。我々を迎えた韓国の若い同窓生が二八年ぶりに見る市内をめぐるバスの中で私共にむけた言葉があった。「私達は今日あなた方をお迎えするため一所懸命日本語を学びましたのに、あなた方は韓国語を勉強せずにいらっしゃいましたのね」と。私は愕然とし恥ずかしかった。」
少女の日にいくつか覚えし朝鮮語目下に使うことばと知れり(『海をわたる雲』)
朱塗りの螺鈿の箪笥置かれいる窓なき温突の部屋に入り来ぬ
写真に添えし小さき見出し訪韓のわれらの記事読めず全南日報朝刊
「早稲田奉仕園でアジアの語学講座が始まったことを光岡さんが知らせて下さり、私は早速そこへ通いはじめ多くの青年やアジアの留学生と会った。ことばの学習を通しつつ、今日なおひそむアジア・朝鮮の問題を通り過ごすことは出来なかった。」(同)
四十歳をすぎて、光州への旅の経験を激しくもまた真摯に受け止め、朝鮮語を学び始める。その仲間は「親子ほど隔つ世代」の若者たちであった。留学生も多く、アジアのかかえる問題を語らう。
風に似てもろ声われによみがえる朝鮮の文字発音すれば(『海をわたる雲』)
ある熱気支えて若きらと学ぶ部屋青葉青葉の窓を放ちぬ
親子ほど隔つ世代と学ぶ日は清しき風を吸うごとくいる
必然として選択したる若きらに親しみてゆく朝鮮語講座
朝鮮の文字通し識るオノマトペ民族の感情のかくこまやかにして

訪韓の数年後に光州事件が勃発した。一九八〇年のことである。その頃の韓国はインフレ、不況、国際収支危機に直撃され、失業者が溢れており、気の遠くなるような物価高に市民は苦しんでいた。とりわけ光州市などの全羅道地方は朴政権時代から、工業化から阻害され、地域的な不均衡にも苦しめられていた。韓国経済の危機の激化によるしわ寄せを最も強く受けていた。その一方では一部の資本家が途方も無い利益を独占していた。そんな中、一切の異議申し立てを許さない軍事的な独裁者朴正煕が暗殺された。新しい体制を約束して民主化を進めようとした動きは、しかし、突然の全斗煥のクーデターで打ち砕かれた。一九八〇年五月十七日のことである。全土への戒厳令の拡大と金大中氏ら反政府派の逮捕を機に、韓国は実質的な軍政に逆戻りした。光州市民は学生たちとともにデモに参加した。このデモへの弾圧により、百三〇人を越える死者が出たと報じられた。(一九八〇年朝日グラフより)
光州の街路はわが目に展きつつ道庁広場群衆かなしみて見る(『海をわたる雲』)
舗道をひきずられゆく屍川のごとくに長髪曳けり
ざらざらと屍曳きずる音まじえ光州のひとつ画面は消えぬ
声ひそむる母らの哀号アカシヤ並木青葉をわけて陽はさし来たれ
『海をわたる雲』は光州事件を報ずるテレビのニュース映像を痛切に詠う一連で終わっている。『海をわたる雲』にふれて、加藤治郎が次のように書いている。「ここにあるのは、歌と生き方と社会が不可分の一体である有りようである。歌とは生き方であり、社会と無縁ではあり得ない。まさに、戦後、「アララギ」から「未来」に継走された端的にいうと近藤芳美の理念そのものなのである」(『桜井登世子歌集』より)
第一歌集は確かに近藤芳美の理念を根幹に据えて詠われている。それと同時に自らの生きてきた道への独自の厳しい内省が貫いている。
このように、育まれた韓国と祖国日本の激しく揺れ動いた時代を背負って桜井登世子という歌人は誕生した。
次回は桜井登世子の第二歌集『冬芽抄』を参考に、歌の技法などについて書いてみたい。