紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

土地の記憶
私は今、JR中央線の東小金井駅の北口に住んでいる。三年前急に足に不具合が生じたことがきっかけで、運動のジムに通い始めた。ジムへ通うには家から東小金井の南口へ出て、農工大通りをまっすぐ西へむかう。この農工大通りが曲者だった。通る度に、なんだか私の心に重いものがずしっとくる。その理由はとっくに分かっていることだ。農工大通りは私の父の生まれ育った界隈で、そこには父の先祖もずっといたようだ。農民であった父の実家は農工大通りの南側に接して農耕を営んでいた。
広い畑には野菜が育ち、野菜と野菜の間には区画を区切るような形でお茶が植わっていた。母につれられてこの辺りを訪問したことが何度かあった。子どもの目にはその道は広く、目印の大きな欅が美しかった。今の稲毛屋のあるところに欅は立っていた。
その頃にはすでに農工大があったとおもう。父の思い出の中の農工大の一帯は、「山」と呼ばれていた。起伏がなくても木が生い茂るところを、昔の人は「山」と言っていたらしい。「山」ではしめじがたくさん採れた。「匂い松茸味シメジ、と言ってね、しめじはとても良いだしが出る」父はそんな風に言っていた。
さて、農工大通りである。父の回想によれば、父の子供の頃まで、家族は大八車に野菜を積んで、この道を通って新宿まで行ったそうである。一軒一軒まわって糞尿を汲んで、それと交換に野菜を置いてくるというわけだ。都会の人たちは良い物を食べていたから、養分が多くてたいへん良好な肥やしができたそうだ。
大八車だ、と私はいつも思うのだ。リヤカーなどという便利なものは父がだいぶ成長してから世の中に出現した。大八車はどんなに軋んだことだろう。どんなに重かったことだろう。舗装などしてあるわけもない、砂利道をひたすら歩いて行ったのだろう。
自転車で農工大通りを走る度にその苦労が偲ばれてならない。私はついにはジムを武蔵境に変更した。こちらは、私の住んでいるところからみて東にあり、新しく出来た高架線の側道をまっすぐに行くので、心がせいせいする。
最近私は用事があってまた農工大通りを通った。その時、私はふと考えたのである。
大八車で新宿へ行くのは案外楽しかったのかもしれない。若者たちがわいわい話をしながら、恋する娘もそこには混じっていたのかもしれない。父の次兄は「長谷川一夫」と言われるぐらいハンサムだったらしいし、父の姉は「小金井こまち」と言われていた。そして皆民謡がこの上なく上手で、先生をしていたぐらいだった。歌を歌いながら美しい人々が歩いてゆく様を思い描いたら急に私は心が軽くなった。

ところで農工大通りについて今回書き始めた理由は、井伏鱒二の『荻窪風土記』(新潮文庫)を読んだからである。井伏が若かった頃ーちょうど関東大震災があった頃ーの荻窪の様子が活写されている。荻窪は今でも勿論存在しており、私も時々出掛けてゆく。本の中に書かれている場所が現在もあることが、何か不思議な感じがする。今は轟々と車が行き来する青梅街道は、のどかな道で「四面道」と呼ばれていた地点も同じ名前で現存している。同じなのは名前ばかりで当時の面影は全くなくなってしまっている。さらに面白く思うことは、井伏鱒二よりもっとさかのぼった時代の記憶である。『荻窪風土記』によれば、徳川第八代将軍吉宗の頃は鷹狩りの関係でこのあたりの高い木を勝手に伐採することを禁止していた。そのため、荻窪あたりは昼でも暗いほどうっそうとした杉や檜の巨木に覆われていたというのである。なんだかとてつもない感じがして嬉しくなるではないか。
時代が変われば当然風景は変わってゆく。その土地の記憶は失われてしまうが、それを惜しむ思いは人々の心の中にあるはずだ。
夫が亡くなって程なく、我が家に急に引っ越しの機運が湧き上がったことがあった。私達はその頃、義母も含めて八人で暮らしていた。悲しすぎる思い出に別れを告げて新しい生活をしたかった。あちこちと引っ越し先を探し、或る好物件にたどり着いた。多摩川を見下ろす斜面に建っている家で、多人数で暮らすにちょうど良い間取りであった。中央線をかなり西へ入った場所なので、価格も手頃だった。今の家を売却すれば入手できそうだった。豊かな自然に恵まれており、長男一家の子育てにももってこいの土地だった。
だが、結局引っ越しはしなかった。もし、引っ越しをしてこの東小金井の町を立ち去ったなら、私はもう二度と再びこの町の土を踏むことはできない。それは余りにもつらすぎるからだ。いや。この町の駅に降り立つことさえできないだろう。だから、悲しくてもこの町に住み続けて、新しい思い出を一つ、また一つと、ここに作ってゆくのが良いのだ。私はそういう結論に達したのだった。
この町は角をまがると不意に亡き夫が歩いて来そうな気がしたりする。十四年経った今、そんなことにもすっかり馴染んで、亡き人とともに私は生きている。