紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

伊沢さんのことは忘れられない。彼の居たアパートの前を通る度にこまごまとした思い出が脳裡をよぎるのだ。
「今度訪問する人は半端じゃないのよ。とにかく」
ヘルパーステーションの上司が言ったときその「半端じゃなさ」の見当もつかず、のんきに「そうなんですかあ」とか言いながらついていった。
密集して建っている建物の三階に部屋があった。隣は一階がラーメン店だった。まずもって階段を昇るのだがそれが恐い。手すりがない。階段は狭く段差が高く、暗い照明のもと、ゆるい螺旋をえがきながら昇ってゆく。両サイドの壁はつるつる。やっとの思いで辿り着いた三階のドアをノックすると、暫くして住人が這ってきて、ドアを開けた。
六畳ぐらいの部屋の半分は布団その他の物が積み上げてあった。伊沢さんは多発性脳梗塞という病気で半身不随だった。年齢は七十五歳ぐらいだったと思うが、本当はもっと若くて、病気と苦労のせいで老けてみえたのかもしれない。
それから伊沢さんへの訪問介護が始まったのだった。
先ずトイレを掃除する。水浸しになっているから、雑巾を何度も絞ってその「水」をふきとる。次に布団を外に干す。三階の部屋はそこ一部屋で、外廊下のような空間があり、そのコンクリートの立ち上がりに布団を並べる。ラーメン店の強烈な脂臭い煙が吹き上がってくるので、干したところで、その煙で燻すだけのことなのにと、私は思った。それ
でも上司の言うとおりに干す。そして部屋の掃除機かけをし、料理をつくる。部屋の横に二畳ぐらいの台所があって、ポリ袋に入った色々なものが棚にはみだしており、人が一人立つのがやっと。包丁を持ってとんとんやっていると恐るべき小蠅が顔の周りに飛んできて、鼻の穴だの口の中まで飛び込んできそうである。多分、どこかに盛大に幼虫が湧いてしまったのだ。
ヘルパーが訪問するようになるまで、伊沢さんは一人で不自由な体をおして料理をしていたという。上司いわく、魚なども手は使えないので肘で押さえて「ぶった切る」のだ。魚の血で腕は血だらけ。大根やら菜っ葉も同じく。全ての食材をへこみくぼんだアルミ鍋に「ぶっ込んで」くつくつ煮る。味付けは味噌。
料理が終わると私は買物に行く。伊沢さんは生活保護を受けていたが、支給の日には友人達にマグロの柵を買ってきて振る舞う。生活保護を受けている人に奢ってもらう人がいるとは、まったくもって驚きだった。マグロを買って来るように言われる度に、私は伊沢さんに「たかって」いる人達(会ったことはないが)に無性に腹がたつのだった。
買物が終わると足湯をした。たらいにお湯をたっぷり入れ、椅子に腰掛けた伊沢さんの足を温める。お湯が冷めないように、差し湯をしながらじっくりと足湯をした。
ある時、足湯をきりあげるときに、「いかがでしたか」と聞いた。充分暖まったかどうか聞きたかったのだ。ところが伊沢さんは、「……ツカレル…」と言った。私はどきっとした。私の独りよがりで、伊沢さんが気持ち良くしているとばかり思っていたのである。だが、伊沢さんはさらに言った。「…ツカレル、アナタガ」と。
すっかり煙で燻された布団を取り込み、伊沢さんの大事に飼っていた亀の「ちび」にエサなどやって、仕事は終了する。すると伊沢さんは部屋を這ってドアまで来て私を見送ってくれた。
いくらなんでもこの階段は伊沢さんにはむごすぎる。私はおっかなびっくり階段を下りつつ、伊沢さんが週何回かは病院やデイサービスに外出しなければならないことを案じないではいられなかった。
伊沢さんの所へは、数人のヘルパーが交代で訪問した。ヘルパーのKさんと市役所の福祉課(生活保護の係)とが相談し、伊沢さんはほどなく亀と共に快適なアパートの一階に引越をした。今度はちゃんと押し入れがついていたから、布団類も片付いた。ベランダの物干し竿に干すと、とりこむ頃はほかほかになっていた。
引越にあたっても、ヘルパーのKさんがてきぱきと万事を手配した。その仕事振りの鮮やかさはただ、あっぱれとしか言えない。小学校の先生だったKさんは快活で行動力が抜群で私などはただおそれいるばかりだった。
私が今もよく通り過ぎるのはこのアパートの前の道だ。ヘルパー達が、伊沢さんの為にどんなにこの転居を喜んだかはとうてい言い尽くすことはできまい。
このころ、仲間が教えてくれた。伊沢さんは、かなりの従業員をかかえる会社の社長さんだったこともあると。家族もあったらしい。だから、生活保護を受けていても、支給日には友人達に振る舞ってやりたかったのだろう。親分気質というものかもしれない。そう思うと、親便気質を満たしてくれた人々はきっと優しい人々だったのに違いない。
私も、新しい住まいを訪問するのは嬉しかった。伊沢さんはある時入院をしたが、そんなとき亀のちびはヘルパーの事務所へ持ち込まれ、そこで冬眠もした。飼い始めたときは「ちっぽけなやつ」だったそうだが、そのころはもう私の掌よりも大きかった。
また伊沢さんは私に、かつて撮影した花の写真などを見せてくれたりした。このアパートでやっと伊沢さんは人間らしい生活ができるようになったように思う。亡くなるまでの二年間ほどをここで過ごすことができた。
可笑しい思い出が一つある。仲間が教えてくれたのだが、伊沢さんは「恋人にしたいヘルパーナンバーワン」は私だと言ってくれたそうだ。ただし「結婚したいヘルパーナンバーワン」は私ではなく、あのスゴ腕のKさんなのだとか。会社の社長だっただけあって、伊沢さんは人を見る目も半端じゃなかったのだ。(文中仮名)
2017/