紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

縁あって鈴木凜太郎氏から依頼され、膨大な書簡を一冊の本にまとめるお手伝いをした。数年前鈴木氏が相続した廃屋(茨城県石岡にある)を改修し、整理していた所、押入の中から古色蒼然たる手紙の山が見つかった。
それは、第二次大戦を迎えた頃の鈴木氏の父義彦氏とその兄弟達、及びその両親の書簡であった。二十三歳の若さで戦死した、鈴木氏の叔父敏夫氏、その兄ー鈴木氏の亡父義彦氏、そして妹達、つまり氏の叔母二人の、四人兄弟の間でかわされたものである。また鈴木氏にとっては祖父母にあたる鈴木節・ゑい夫妻のものも沢山あった。これらの二五〇通余りの書簡のすべてを鈴木氏は根気よくデータ化した。その作業は約三年間続き、ついにこのたび編集作業も終了し、上梓されることになった。
私は最初に見せられた叔母の喜久子さん、郁子さんの手紙を読み、たちまち引き込まれたことを思い出す。二人はそのころお茶の水女子大の前身であった女子高等師範学校   の寮にいたのだが、ドーリトル隊による日本本土攻撃を目撃したのであった。手紙は大変活き活きとその折りの事が書かれており、市井の人々があの最初の攻撃をどう捉えたのかがありありと伝わってきた。
私がこの本の為に書いた帯文はつぎのようなものである。
「これは鮮やかな昭和の家族像である!
本当に七〇年も昔に書かれた手紙なのだろうかと、不思議になる。日々の生活が活写され、どの手紙もたったいまペンを置いたばかりのように伝わってくる。戦争へと否応なくなだれこんでいった時代のなかで家族が細やかにお互いを思いやり、いたわりあっている。たとえようもない悲劇へむかって歩んでいった、その一日一日がいとおしい!」
帯文のために誇張して書いたわけではなく、これが私の実感だった。読み進む内にいつしか私は昭和の家族の一員になっているような錯覚を覚えた。誰もが敏夫氏をこよなく愛していたことが行間に滲むのである。敏夫氏は快活で、日焼けして、元気一杯、闊達な文章を書き、妹たちを可愛がっていた。妹たちも敏夫氏を慕い、恋人のように会える日を待ち焦がれていた。
だが私は少し先を急ぎすぎた。書簡であるから、家族のうちの誰かが家を離れた際に手紙が書かれていたわけだ。以下、敬称略をお許し頂いて手紙を辿ってみたい。
最初は昭和九年から始まっている。旧制水戸高校の生徒として寮生活をしていた、若々しい義彦の手紙が一通あった。その時敏夫はまだ十三歳、喜久子は十一歳、郁子は九歳。
二・二六事件が起きた昭和十一年には、従兄弟の金次郎が関与したことで、衝撃をうけていた。家族同様の間柄でもあっただけに義彦は事件に対して世間一般とはことなる見解を、次のように記していた。
新聞など見るにつけても金次郎さんの様な青年将校の悲壮な心持がしのばれて、むしろそれを唖然とながめて「人を殺すなんてむごい事だ」などと批評している人間の方があさましいもので、日本のすべての人人が青年将校ほどにつきつめてすべてのものを見ていたら、前途有為の青年の生涯を目茶目茶に―世間的な意味で―することはなかったでしょう
当時の日本の農村の貧しさが、この事件の背景にはあったようだ。そこまで見通すことは当時もそして今も、当事者を除くと僅かな人々にしかできないことだった。

さて昭和十二年、敏夫(十六歳)は海兵合格となる。その年東京帝国大学工学部造兵学科に入学していた義彦は次のように書く。
愈々これからは自分達のゆく手が具体的にわかって来ました。お前は海軍士官であり私は一個の技師になることになった。特別なる変化がおこらぬかぎり将来の各自のゆく手はきまったわけです。
これはほんの一部。弟敏夫あての手紙は、じっくりと行く末を見つめた形で書かれており、老成した感じのする助言も沢山書かれている。

昭和十三年にはいると広島県江田島の海軍兵学校に入った敏夫に当てて、家族の手紙が沢山書かれる。まず父親節の手紙から。
兵学校の生徒は日曜には羊羹を食わないで呑むという話を聞いて来ていたので今朝は兄さんがヨーカンを呑む日だと妹達は言っている。今日は何本のみましたかお知らせ下さい アハハ
羊羹をのむ、というギャグは手紙のあちこちにくりかえされる。若い兵士の卵たちのいきの良さが伝わってくるようだ。母親は次のように書いている。
エスはお前が見えないので口がきけたらなんとか言うでしょうか相変わらずあっちこっちへごろごろしています。吠えることも別して変わりはないようです。妹達が食物をやって居ます。心配ありません。夏休み帰って来たらどんなにかよろこぶことでしょう、東京の兄さんは近いし時には帰宅も出来るから心配も少なくなりますがお前のほうは片時も忘れたことはありません
またある日の手紙では、義彦が新聞の論調の軽薄なることを苦々しく思っていることが伺える、こんな内容がある。
ー我が国の新聞に形容詞の多いこと、はなはだ読みにくいうえに俗悪なるセンチメンタルさが気持ちが悪い。第三面ならよいとして、第一面にしかも大新聞たるものがこうした報道をやっているのは少々どうかと思う。勇猛果敢、弾丸雨飛、敵の大動揺、敵政府分裂、ああ壮烈、等などの最上級の形容詞やなにかが筆の調子にまかせて書きなぐってある。毎日毎日すべての欄にだ。近頃の戦争はそんないい加減なものではないので、物理実験のように正確に、たとえば室温、気圧、速度、質量、通過距離、エネルギー等が与えられるように、経済的、政治的、軍略的情勢が全く正確にセンチメンタルなる形容詞抜きで発表されるならばウィークリーとしてでも読みたいと思う……。
当時の日本で、ジャーナリズムに流されない感性を持つ人は極めて稀ではなかっただろうか。若き義彦の冷静沈着さには驚く。
同じ十三年の父親節の手紙には、手紙を喜ぶ母親の姿が書かれていた。
色々情趣の豊かな消息を貰いまして嬉しく読みました。お母さんは例によって涙を流しながら「子供は可愛いなあ」と言って喜んで読みました。
同じ時期の喜久子(十五歳)の、敏夫宛の手紙には
兄さんの制服のお姿はどんなでしょうかね。いろいろ想像して見ました。間もなくみじか上着に短剣の御写真が見られることと楽しみにして居ります。
また義彦はユーモアと知性にあふれる手紙を書いている。
ー万葉集や実朝歌集や子規歌集は何度読んでも又よみたくなるに違いないのに、トルストイは二度よみたいと思うであろうか。アンナカレーニナや復活やツルゲニエフやドイツ浪漫派風作品が二度とよみたくなるであろうか。どうもわたしはそうは考えない。ゴールズワージのあるもの、デイキンズなどなら読みたくなることがあるかもしれない。藤村や武者小路や蘆花やそんな人々のものをよみたくなる代わりに歴史が読みたくなるにちがいない。これは私の思想がどんな途をたどったかを示すプロセスを示すのではないかと思う。……。
 露西亜語辞典送ります。英語は大体もう出来るのだから露西亜語のほう頑張って物にして下さい。どんな方面から国家の助とならぬとも云えますまい。将来露西亜の自然科学界工業界が相当研究される時期があるだろうし。又帝政末期の露西亜の状勢などを研究すればもって国家興亡の間の消息をうかがうに足るのではないかと思います。……
ー祖父曰く「敏夫の手紙はなんだな―例をひいだりすんのがうまいな。例えばねこめがねずみを取っどきみでえだな。」一同賛成、呵々。
ーお父さんは「エスが困った時の顔をする。」とは誰が観察したのだろうか。実にそんな時がある。
帰って来たらビールを銀座でのもうかな
沢山の文章からアトランダムに引いてみたが実に家族間の暖かな心の流れが伝わってくる。
同じ十三年の五月の父親節からの手紙には家族で大掃除をした様子がわかる。
ー今日は廿六日靖国神社臨時大祭で休暇を賜り学校はお休みですので延び延びになっていた大掃除をお母さんとやりました 二階の方もすっかり畳を上げて叩いてナフタレンを十分に撒きました 夏休みにお前達が帰って来ても蚤がいないようにという心持です お天気に恵まれて十分に行きました 楓も錦木も若葉で非常に美しい中でくりくりと働き廻ることは愉快です お前から今日は手紙が届くかと心待ちしましたが来ませんでした 明日頃は届くかと待っています 昨日は東京の兄さんから手紙が来ました。
同じ日の郁子の手紙には、大掃除のことが更に細やかに書かれている。
ー兄さん今日はうちでは大掃除で二階もすっかりやりましたからきっと夏になってものみがでないでしょう まずお父さんが着物をきたままたたみをあげはじめるとお母さんが「着物のままではだめですよだめですよ」といって少しやってからかーきいろの兄さんのズボンにしわくちゃなうわぎをきて「ああきつい、腹をへこましてやんなくちゃなんないな」とズボンがきついのでいいました お父さんはたたみをてすりにたてかけやねにほすというしお母さんは屋根へほすとたたみがすべりおちて「とい」もなにもこわれてしまうとがんばってしまいにはお父さんのいうようにしてつなでてすりにしばりつけることになりました お父さんの姿はさっき書いたようですがお母さんは手ぬぐいをかぶり手ぬぐいのマスクをして一生懸命やりました あまりマスクをつよくしめたので鼻がひくくなってしまったのできくちゃんは「鼻がひくくなりそうだ」と笑いました 今日は大掃除のことだけに致しましょう 

この頃に書かれた喜久子の手紙。
ー今日兄さんの長い長いお手紙を拝見致しました。いろいろくわしいので御様子もすっかりわかりました。ほんとうに御元気でなにより嬉しく思いました。私も時々起床の時の御元気な兄さん、大食らいする時の兄さん、棒倒しの時の兄さん、お手紙を書く兄さん、いろいろのお顔や様子を思いおこして見ます。その自分勝手に想像した兄さんが馬鹿におかしい時など一人で笑ってしまう時もあります。

初めの数年間は敏夫からの手紙がまったくない。敏夫が入隊の前に自分で庭先で燃やしてしまったのではないか。(そのような義彦の短歌があった。)だが、ある時期から後の手紙は残っていたので、私たちはやがて敏夫の肉声とも言えるものに触れることができる。
この頃書かれた母親ゑいの手紙には子を思う心があふれている。
ーお前はいつも元気な便りを呉れるのでうれしく思っています。夏休みに包みきれぬ様なお前の笑顔を見ることがどんなにたのしみだかわかりません。家のもの皆丈夫です。……
ーお前に逢いたくなると写真と手紙とを出しては見入って居ります。……

昭和十三年六月、思いもよらぬ事件がおきた。学校の相撲の訓練中に敏夫が大腿骨骨折の重傷をおい、年末まで療養生活を余儀なくされたのである。事件を巡る家族の驚きと心配は言葉に尽くせぬものがあった。どんなに痛いだろう、苦しいだろうと次々と手紙が書かれている。だが、おりあしく水海道のあたりは洪水のため交通が遮断されて郵便さえ思うように配達されなくなってしまう。飛んで行きたい思いをこらえ、家族はひたすら励ましを書きおくるのである。

郁子の手紙
ー電気スタンドの下でこの手紙を書いていても今、兄さんはどうしているだろう、身動きも出来ないかな、それとも少しは動けるのかな、ほつねんと一人寝ているのかなどと考えます。
それでは大切にして治りが早いように 

ゑいの手紙
ーしばらくの間はお前のことについて種種の場合を考えて見たりして何にしても残念なことをしたと思いました。しかしこれも天の与えた試練であらねばなりません。いずれにしてもお前は海軍士官の卵です。確りなさい。お母さんもこちらで歯ぎしりをしてお前と共に苦痛をこらえます。それは肉体的の苦痛ばかりではありません。むしろその他の場合の苦痛の方が多いことでしょう。心を大きくしてそれらの試練に堪えねばなりません。……
ーお前の負傷を聞いてからうち中のものはお前のことばかり考えて暮しています。一日も早くお前が自分で便りを書けるような元気になってくれる様に神様にお祈りしています。近いうちに家から見舞いに来りますからたのしみにしてお待ちなさい。……

母が見舞いに行ったあと、留守宅では娘達が食事の支度をしている。慣れないので初めはご飯がベチャベチャだったり、ぼろぼろだったりした。汁の実をあれこれ考えたり、ぬか漬けに虫が湧いてしまったり。すったもんだの家事のありさまが事細かに綴られている。

九月になると漸く敏夫は松葉杖にすがって歩行できるようになった。家族が安堵して喜んだことは言うまでもない。ほっとした気持がそれぞれの手紙に横溢している。

昭和十四年四月、一家は松戸へ転居した。
松戸の家から傷癒えた敏夫に宛てて書かれた喜久子の手紙。
ーその間唯一度家へ寄ったきりでしたのでもう帰りたくて帰りたくて毎日を暮らしました。その七日がとても長く思われてなりませんでした。「何だそればっかり問題じゃない」と思ってお笑いになるでしょうがその間暇さえあれば早く八月になって真白な夏服を着て真黒に日焼けした兄さんをお迎えに行く日がくればいいなあと思っていました。兄弟四人そろって狭い庭だけれど椅子でも出して星を眺めたらどんなに楽しいだろう。お父さんやお母さんもどんなにお喜びになるだろうなどと考えて居りました。そしてその事を考えるともう嬉しくてたまりません。いつも散歩に行くと「ああいいなア、敏夫が来たらここへ来て遊ぼう」などといつもの様に兄さんが云われます。ここは散歩にとてもよい処です。家は兄さんがやっぱりこの狭い所へお帰りになるでしょう。苟も海軍将校たらん人をこんな家へ迎えては……とおっしゃることを予期しています。が、兄さんも製図が出来なくて大変お困りの様ですから仕方がありません。水海道の家はほんとうによい「思い出の家」となりました。去年の今頃のことを考えると全く夢の様な気がします。脚もすっかりよくなって無事に今度帰省できるのは本当に幸せな事で今年の休みも何倍楽しいものに感ぜられる事かと思っています。

昭和十四年 敏夫は怪我から回復し、兵学校へもどる。末っ子の郁子は育ち盛りで、居眠りばかりしていてそのことが母親や喜久子の手紙に良く出てくる。自分でも「スリーパー」などと記名している。家族の様子が事細かにかかれており、コオロギが啼き、蛾や甲虫が部屋にとびこんでくる、静かな生活が伝わる。
十四年の秋のゑいの手紙。
ー白い服が黒に代わって元気な顔で帰省する日が待ち遠しい気がします。この頃皆揃う関係上御夕飯を六時と決めました。昨日お父さんが帰って来てパラペッタパラペッタと二三回繰り返してから敏夫がよくやったっけななんて言い出しました。毎日お前の噂が出ない事はありません。ブダイザイ、バカネルソン、ダイキボ何と意味深いことばでしょう。ビンラビラビラの時節もじきです。それでは体を大切に、ご返事忘れぬ事。
家族にしか分からぬ合い言葉のようなやりとりである。

郁子のある日の手紙
ー兄さんが行ってしまった一二日はなんとなくひっそりしてしまいました。あの六日の日には朝きくちゃんが丁寧に作ったパンのサンドウィッチを汽車の中できっと食べているでしょうと想像しながらお晝を食べました。兄さんにはあのワイシャツの腕の所へするゴム輪お忘れになりましたね。まだあのうちの帽子掛けにひっかかって江田島を恋しがっています

昭和十五年の二月のゑいの手紙には
ー瓜はめば子供おもほゆ栗はめばで事毎にお前の噂が出ます。日曜日のお茶の時間はいつもきまってトシチャンラヨウカン呑んでるかしらなどど誰かいいだしますよ。こちら二十五日朝うぐいすの初音をききました。今日などばかにポカポカしてまるで春の気分でした。春になると一昨年春お前が摘んで送ったすみれをなつかしく思い出します。
 また咲いたら送ってよこしなさい。そちらをお前を偲ぶよすがともしましょう。うちでも桜草、チンチョウゲ、春蘭などいまにも咲きそうに可愛い様子をしています。   母より 
昭和十六年になるとようやく敏夫からの手紙が現れる。女子高等師範の寮に入った妹の喜久子(十八歳)へ宛ててかかれたものを見てみよう。
ーお葉書拝見致しました 無事入舎されたとの事安心致しました あなたがひとりぼっちでむっつりおし黙って入校しはしないかと思って僕は二、三日心配していたのだよ 私の経験からしてはじめはさびしいかも知れない しかしそのうちに慣れて来るよ 今ごろは新しい教科書を落ちつかない気持ちでみているのじゃないかなどとはじめて人の中に出たあなたの姿を想像している 今に新しいお友達も出来て生活がほんとにたのしくなるからあなたのこれからの生活はお父様もお母様もおなじようにやって来られたのだよ 団体生活は団体生活の面白さがある 僕も学年末試験でいそがしい お友達とは仲よくたすけ合って暮らしなさい。
優しい思いが行き届いていて、読む私の胸がほっこりと温かくなるような気がする。
又こんな手紙も見られる。
ー昨日郁子から手紙がきて あなたが 名残惜しそうな「また来るから」と言うて帰って行くさまがかいてあったよ
 家へかえるのはどんなにかうれしいことと思います。普通の日はなるべく勉強して 日曜日はなるたけ家へかえって郁子と相手になってやりたまえ 家へかえると父上があなたの顔をまじまじと見ながら ドウダイ?というだろう 母上がいそいそと迎えてくださるだろう そして家の有難味を充分了解されたことと思います 
 そろそろそちらもあつくなってくることと思います 体にきを充分つけなさい 今日は日曜日で広島の兄上がこられて久しぶりに家の話をしたよ
 遠い江田島で兄弟で話をするのも仲仲よいものです 今日はあなたも家にかえっているかななどとかんがえています
体を丈夫にして勉強しなさい
このような文章を読むと「家族」というものがもつ求心力が強烈に働いていたことが感じられる。和辻哲郎の「風土」にも東洋的な家族の愛情の深さが語られてあったことなどを想起した。
昭和十六年になると義彦が仕事で広島へ移転し、下宿している様子がわかる。母親も妹たちも不慣れな洗濯などをしている義彦を労っている。

十六年の夏。敏夫から喜久子宛の手紙には夏休みに向けての呼びかけがなんとも優しい。
ーあなたの方は夏休みが近い事と思います 私も最後の夏休みだから面白い事をしたいと思っていますがいそがしいからあなたの方で計画しておいて呉れ給え 何処へでもつれて行ってやるよ 最近家へ帰りましたか 夏になったら水泳を練習してみたらどうですか 体のためによいから 忙しいので乱筆にて
たまに敏夫が帰省すると、その時の様子が郁子から事細かに広島の兄義彦へ向けてしたためられる。
昭和十六年八月の郁子の手紙
飛行機と言えば昨日は夕飯の後で敏夫兄さんから飛行機のお話をききました。きりもみのとき海の水がとろろの様に見えること、単独飛行の時少しひやひやしたこと、飛行機は大変面白い事、そのたいろいろ口に唾の泡を一杯にしながら、どう言ったらその痛快な様子、異様な感じを私達のったことのない人に知らせる事が出来ようかという風にその話す様子は十分御想像出来ると思います。とても面白そうでのってみたくなりました。……
ゑいからの手紙は、着るものの心配や夜具のことなど、身の回りのこまごまとしたことが書かれている。
昭和十六年十二月には、検閲済みのゴム印のおされた軍事郵便が届くようになる。敏夫は軍艦鈴谷の乗員となる。遠い洋上にあっては家族の手紙がなによりの喜びであった。心づくしの慰問袋がもう届いたかしらと胸をおどらせながら返信を待つ家族の気持も伝わる。

昭和十七年三月頃は、シンガポールの戦勝気分に湧いた敏夫の手紙が届く。家族は次第に食糧難になっていく。砂糖の配給の話や味噌が不足した話など。十七年には物資の少しはあった故郷の石岡へ節、ゑいの夫婦は転居するに至った。十七年四月には東京で寮生活をしていた姉妹がドーリトル隊の攻撃を目の当たりに見るという体験をした。訓練だとばかり思っていたら、どんどんという爆撃の音と煙が上がってびっくりした。いつ来るかと思っていた事が現実になったが、想像していたほどではなかった、と。
昭和十七年の五月、敏夫は黄疸がでて体調が不良。四日ほど休暇をもらって石岡へ行くが夫婦とも留守だった。親類宅に一泊して東京の妹の所へ行ったところ、偶然にも母親にも会うことができた。久しぶりに会えた喜びが綴られている。体調は暫く優れなかったようである。
行き違いになって会えなかったことは同年七月にもあった。
喜久子の手紙
今日は本当に申訳ない事を致しましてなんと申し上げてよいか分りません。
 御兄様も長い間お待ちくださいましたそうでどんなにか御退屈でございましたでしょう。私達もすっかりしょげ返ってしまいました

昭和十八年敏夫は大分県宇佐海軍航空隊学生舎に移動した。簡略な手紙がやりとりされている。六月の手紙には貯金について、「残額(アルマイト思イマスガ)有之候はば私共もはや金銭不要の身に有之候間を旅費なり妹の学資の補助にも使用相成度願上候 と近い将来の死を覚悟したような文面が見られる。
昭和十八年の暮れから十九年の正月にかけては家族がお互いをスケッチして、それを敏夫宛におくっている。寂しいような静かな正月だった。戦局悪化にともない、訓練不十分なまま出撃をやむなくされていた敏夫達。その手帳が遺されていた。昭和十九年六月十九日マリアナ沖海戦にて敏夫は戦死した。
足の怪我ひとつにでも家中がほとんど狂乱状態と言っても良いぐらいに心痛の極みにあったことを思うとき、戦死したことを知って、家族はどうしたことであろう。私はしばしば外出したおりなどに海へ落ちてゆく敏夫の事を思い、彼がそのとき何を思ったかをありありと感じることがあった。家族が心配の極みにあって敏夫の事を案じていたように、彼は家族のことを思っていたに違いないのである!
暖かく切実な、昭和の家族。愛しい人々のすがた。国のためというよりは家族を守ろうという志で出撃していったに違いないその心を、思わずにはいられない。

戦死の後に郁子は死者に向かってさながら生きている敏夫に宛てて書いたかのような不思議な手紙を書いている。兄を案じる言葉が書き連ねられたあと、工場に動員された自分の生活が語られる。そのあとで次のような言葉が続くのである。
ー兄様が兵学校の頃の夏はどんなにたのしみだったことでしょう 休暇が近づくころはいつも兄様のおたよりの何時の汽車でお帰りになるのかというのが待たれました あの頃はいつも兄様の朗らかなお手紙をかこんでよみ合いました 東京駅にお迎えに参りました 白い服を探して人ごみの中にお待ちする時のうれしい気持ち・・・・・・
ー兄弟四人そろって松戸の山に遊びに行きました バレーボールを持って兄様方は田圃へ出ると上半身裸になって大きな声でどなったりさけんだりいたしました 草の上樹の下に大の字になって歌ったりしていると百姓が通りがかりにへんな顔をしてけげんそうにみて通りました 紅に光る草いちごをとってたべたりしたあの森あの林あの小道は今も変わりなく涼しい木陰を作り、あの時とちがうのはただ私達四人がそこでボール投げをしたり歌ったりしなくなっただけかも知れません。 兄様が細いしなやかな木に高くのぼり蟬のまねをなさったのは今でも忘れられません 兵学校羊羹なんていうのも思い出します おいしかったですこと……
この様な思い出の記述がさらに続く。手紙にうかんでくる、敏夫在りし日の兄弟の姿は、活き活きと書かれているだけに切ない。

ここまで、長々と手紙を引用して書いたのは、当時の人々の生活や思いを伝えたかったからだ。人々の一人一人があの時代をリアルタイムで歩むさまが、かけがえのないものであると思われるのだ。百人いれば百のケースが、千人いれば千のケースがある。それらのケースは、本来捨象したり、括ったり出来ないものではないだろうか。鈴木凜太郎氏が一通一通の手紙をデータ化されたのも、そのような思いがあったからではないだろうか。こうして文章を書き終え、改めて思う。亡き人の享年のなんという若さであろうか、と。
敏夫享年二十三歳。
この年、義彦二十六歳。喜久子二十一歳。郁子十九歳。

人遠し陰膳据えて節句かな

義彦が遺した俳句である。
人遠し。この一つの言葉が、何と重いことだろう。万感こもる哀切なこの言葉を、書簡集のタイトルとすることにした。     2017/6