紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

前原の坂を下りきってすこし行った住宅街の中に、ヤエコさんのお宅があった。閑静な一角で、落ち着いた感じの庭のある二階家だ。ヤエコさんが発作に見舞われたのは夫の亡くなった後すぐの通夜の時だという。
ヘルパーになってしばらくたった頃、その重い任務を与えられた。上役いわく、患者さんは一言も発語できず体も全く動かせない。体重は八十キロを超え、点滴のみで生きている状態だ。
私の仕事は、全身の清拭、足浴と手浴、寝巻から洋服に着替え、ベッドからリフトを使って体を上げて車いすへ移動し、庭に面したガラス戸から戸外へ出て、三十分位散歩する。帰宅したらまた着替え、新しい寝巻にする。
体を動かして清拭するのはヘルパーの訓練を受けていたので何十キロあろうが難しくはなかった。足浴と手浴はベッド上で行うが、ひどい水虫にかかっていたのでかならずうすいゴム手袋を装着して行う。倒れてから数年は経っていたようだった。全く無表情にあおむけになっている体は小山のように膨らんでいた。
前原の坂を自転車で降りてゆきながら、私はこの世にこんな酷い事態がおきることにいつも新たな驚きに襲われた。元気いっぱい、孫たちと暮らしていたことだろうにある日突然このような言語に絶する出来事が起きたのである。実際倒れた当初はずいぶん辛がって泣いておられたと聞いた。
ヤエコさんを依頼したのは息子さんとその配偶者のアサさんだ。アサさんは感じの良い四十歳ぐらいの人だった。病院に入れるとすぐに床ずれができたので自宅へ引き取ったとのこと。ヘルパーの来ている時間に病院へ薬を取りに行ったり用事をすませるのだそうだ。
私は一通りのケアを済ませると、外出用の洋服に服装を整えて、その重い体にリフトの装具やベルトを廻し、リモコンを使って車いすに移乗させた。うまく移乗できるのが当然だがやはり毎回緊張した。それから決して土に触れることのない足に靴を履かせ、帽子をかぶせる。
ガラス戸をあけて車いすを押して庭へと降りていく。これがまた怖い。まず息子さんが日曜大工で作った、木製のスロープ台を、ガラス戸のレール部分と庭の土のあいだにセットする。家の土台と庭とは七十センチぐらいの高度差があるのだ。そのスロープ台の幅は、車いすの幅ぎりぎりぐらいで、余裕がない。少しでも曲がったら大変なことになる。最悪の場合、ねじれ状態で庭土の上に車いすが転落することも考えられた。だから、いつも歯を食いしばってブレーキをしっかりとつかみ、左右の幅を絶えず見ながらまっすぐに一歩一歩と降りていくのである。下までほんの六、七歩だが、降りきるとほっとして、「やっほー!」と叫びたくなる。
たとえ戸外が大変に暑い日、三十七度を超えそうな日でもこの日課は続けられ、省略はされない。依頼者のお考えにケアマネジャーも賛同したからであろう。木陰を選んで小さな児童公園まで歩く。朝顔が咲いていれば近づいて行ってお見せする。きれいな青い朝顔たちが一斉に風に花びらを震わせながらこちらをむいているので、ヤエコさんもきっと嬉しいだろうと思う。
公園の木の下に車いすをとめると、木の上からヒグラシの声が降ってくる。ヒグラシは何と一途になんと切ない声で啼くことだったろう。しばらくのあいだ、ヤエコさんとその声を聴いていると、ヤエコさんの失った言語が、いまヒグラシの声になって聞こえてくるような不思議な気持ちになる。そうなのだ、確かに私はその時ヒグラシの声にヤエコさんの声を聞き取っていたのだ。その後何年も何年も、ヒグラシのあの声はしみじみと胸いっぱい私の中で響き続けていたように思う。
公園を出てまた家へ向かう。車いすには黒い日傘がくくりつけてあった。ヤエコさんは帽子と日傘に守られてしずしずと自宅へ向かうのだ。
家に着くとまた着替えをする。こんどは洋服を脱いできれいに洗濯された寝巻に着替える。私はベッドのまわりをくるくると動き回り、動かない重い体をあっちへ向けこっちに向けてどうにか着替えを終了する。
今思い出しても一つだけは良いことをしたと思うことがある。それは洗髪を提案し、実行することにしたことだ。私の提案をアサさんは直ちに受け入れてくれた。そればかりか、ちゃんと「土手」をこしらえておいてくれた。これは彼女もヘルパーの資格を取っていたのでできたことだ。資格取得の講習で洗髪を習うのだが、寝たきりの方の頭のまわりに土手を巡らせ、水が背中などへ廻らないようにするのである。この土手は新聞紙を巻いて筒状にしたものをストッキングに入れてある。硬さといい高さといい扱いやすさといい、実によく考案されたものである。
土手の上にビニールを敷き、そこに患者さんの頭の位置がちょうどよいようにする。土手の一端はベッドの下にセットされたバケツに向けて水が流れるようにする。ほど良い熱さのお湯を数本のペットボトルにたっぷり用意して用いる。私は洗髪は実地にやったことがなかったので家で家族を捕まえては練習をした。私のベッドで息子たちを試験台にして洗髪をするとみんな「気持ちいい!」「もっとやって!」と異口同音にいうのだった。そこで私の姉にも来てもらい、私の頭を洗ってもらった。姉は普段鍼灸師の仕事をしているだけあって、体に触れることにためらいがなく、落ち着いてじっくりとシャンプーし、丁寧にお湯を回しかけてきれいに洗ってくれた。粗忽者の私は、この時の姉の落ち着いた態度にいたく感銘をうけた。私もけして慌てることなく自信をもって、しっかりとやろうと決心した。
ヤエコさんの洗髪はまもなく始まり、毎回やるようになった。私もすぐに慣れた。ヤエコさんはいつもうっとりしているようにお見受けした。
ある時、洗髪を終了してブローもおわり、顔もきれいに拭きながら、「ヤエコさんはお若い時、きっとさぞお綺麗だったでしょうね」と話しかけた。ほんとにヤエコさんはそんなに風船みたいに膨らんでおられたが、ロシア人形のような綺麗な顔だちだったのだ。ふと見るとヤエコさんの目から涙が一筋流れおちていた。
またこんなこともあった。ヤエコさんに「以前は洋裁のお仕事をしていらっしゃったんですってね。とても良い腕をお持ちでいらしたとか」と話しかけた時も、ヤエコさんの目から涙がほろほろとこぼれたのだった。
アサさんは、私が来た日はヤエコさんの表情がとてもやわらいでいると言ってくれた。表情はほとんどないと思っていたので、びっくりするとともに、嬉しかった。
春先には花の咲いている梅林を通りかかったときに一枝折って持っていった。ヤエコさん、ほらもう春ですね。良い匂いがしますよ、と顔に近付けて話しかけた。だが帰る道すがら、ヤエコさんは梅の花の匂いを嬉しく思っただろうかと考え込んでしまった。もしかしたら、良い匂いであればあるほど、ヤエコさんは悲しかったのではないだろうか。
ヤエコさんはそれから間もなく亡くなった。前原の坂を降りて行っても、もうヤエコさんはいない。あの言葉につくせぬ苦しい時間を、とにかく生き切って逝かれたのだなあと思う。
ひぐらしの鳴く公園の車椅子喪いし声は樹より降りくる
2018・1