紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

発足のいきさつ
弾談の会のこれまでのことを振り返り、懐かしむと共にスタッフとしてずっとかかわってきたことが私にとってどんな意味があったのか、多くの人々や音楽との出会いが私をどんなふうに楽しませてくれてきたのか、ここで一歩立ち止まり、考えてみたいと思う。
二〇〇六年十二月。かれこれ十一年前のことになる。〈弾談の会ぴあ~の〉会報の創刊号を発行した。会の発足はその時に遡る。
鈴木たか子さんのピアノコンサートをそれまで支えてきた「きさらぎ十人衆」という団体が解散した。一方、私は夫を亡くして数年がたって、これから先の自分の身の処し方を考えていたところだった。それまでは主婦業の傍ら仕事もし、市民運動などに関わってきたので、今度はすこし老後の楽しみを見つけたいという思いがあった。
「きさらぎ十人衆」の解散となると、鈴木たか子さんの演奏をそれまでのように定期的に聞く機会がなくなってしまうのだろうかと、私はひどく残念な気がした。
何といっても友人のたか子さんの演奏を聴き続けたいと思った。また、私の周りを見回すと、高校時代の友人の中でもたか子さんほど一筋の道をまっすぐに歩んでいる人はほかにいないような気がした。私はたか子さんの演奏を何らかの形で続けてほしいと願い、一つの会を立ち上げることにしたのであった。
音楽のことに詳しくまた演奏会にも慣れておられる岡田氏と原氏が仲間に入ってくれた。ふたりは音楽の事にはまことに博覧強記な人たちだった。
会の方針を色々と相談した日のことは忘れられない。これからどんなふうに会を運営していこうかと楽しく語り合った。まずもって、クラシックのピアノの演奏はひとつの柱である。だが、ただピアノを弾くだけではなくて、必ずゲストを招いて何か語っていただく。ゲストは人寄せとしてどこかから有名人を呼んでくるのではなく、私たちが顔を知っている人がいい。人と人とが気持よくゆるやかに繋がっていけるような会にしたい。だから、会は会員制とし、年に何回かは交流を兼ねて例会をやろう。また、簡単な通信を発行しよう。これも、すんなりと合意できたことだった。会費は皆さんの負担を考え、年五百円と決めた。会費は通信の発行費、郵送費などに使うことにした。ゆくゆくはコンサートも会員をメインの聴衆としてやれるようになるといいと思った。
いったい、どのくらいの人が会員になってくれるだろうか。すこし心配だったがやってみるにしくはない。
こうしてスタートを切った会である。たか子さんは合唱の指導をしていたし、私たちの友人も積極的に関わってくださったので、多くの人々が関心をもって入会して下さり、会の準備はは順調にすすんでいったのだった。最初に、会員制にしようと思ったときはそれが会の人間的なつながりの密度を高めるということ以外には何も考えていなかった。しかし次第に、会計の面で大きなメリットがあるということが分かってきた。会計を、イベントと会費との二本立てにしておくと万事が好都合であった。会費をプールしておくと、それを資金にしてイヴェント(公演)の場所の費用を前払いできるのだ。チケットが売れればそれはまた会費の方へ戻せる。メンバーが立て替えたりしなくても済むのが有り難かった。これはひとえに会費を皆様が大変きちんと払って下さったことに負うていた。。
さて、会報創刊号を開いて眺めると、その時の気持がこんな風に書いてある。
「ゆっくり ゆったり ぴあ~の (鈴木たか子)
〈弾談の会ぴあ~の〉が、皆さまと一緒につくっていきたいという願いの中、、生まれようとしています。立ち上げるというのではなく、とても自然にこの会が誕生しようとしていることに、私は心動かされています。……思いもよらない仲間のつながりが、目の前に現れてきました。
市原賤香さん~岡田夏彦さん~原浩一郎さん。
私の大切な友人賤香さんから始まるこの(友達の輪)は、原さんが若い頃安達元彦さんと仕事上ゆききがあったという大きなおまけまで、すんなりと新しい会を誕生させる輪になっていきました。……深い息がつける場になりそうです。……」(会報創刊号)
この会の名前の由来も書かれている。―弾談の会とはピアノを弾くの「弾」、お話をするの「談」をつなげたもので、「ぴあ~の」とはイタリア語で今では楽器のピアノの意味でつかわれることが多いけれど、本来は小さい、静かな、あるいはゆっくり、などという日常語―。

第一回公演「BACH & ADACHI 数寄」 杉並公会堂グランサロン 二〇〇七年六月十五日
第一回の公演はとりわけ忘れ難い。消防法によって会場に入れる人数は限られていたのに、あとからあとから予約なしの方々が押し寄せてきた。グランサロンは満席で、私たちスタッフの坐る椅子さえなくなってしまった。どれほど気がもめたことだろう。まったく寿命が数年は縮んだと思う。この時はピアノ演奏だけで講演(談)の方はまだやらなかった。この部屋はオーケストラの練習用に作られたフラットな空間で椅子も自由に配置できた。ベヒシュタインという胴長のピアノを正面ではなく部屋の側面に置いた。椅子をピアノのまわりに半円を描く形で置いた。期せずして「円座」ができたのだ。鈴木たか子はバッハのゴルドベルク変奏曲という大曲を休みをいれずに全曲弾き切った。そのあと、さらに安達元彦先生のMIN―YOⅢを弾いたので、実に持てる力のすべてを出し切った感じがあった。今でもゴルドベルク変奏曲を聴くと懐かしさがこみあげてくる。この曲はもともと、チェンバロ用に作られた曲らしい。チェンバロなら鍵盤が二段になっているのに、それをピアノで弾こうとすると大変な技術を要するという。男性でも全曲を弾き切るのは体力勝負な面が否めない曲だ。ほんとによくぞ頑張ったなあといまも思う。「今夜、皆さまの心と体が、ピアノの音と一緒に鳴り響くときが、一瞬でも生まれたらいいなあと、願っています」とプログラムにあるとおり、聴衆が一体になって集中して聴き入っていた。あの会場のすごい熱気、湧き上がる感動と、達成感は素晴らしかった。最後にピアノの傍らに投げ入れをしてあった百六十本のポピーを一本ずつお持ち帰りいただいた。

初めての例会
阿佐ヶ谷の「ヴィオロン」という喫茶店で初めての例会をもった。店を下見に行った日、店内にバッハのマタイ受難曲が流れていたことを思い出す。店主が針をヨーロッパから取り寄せて昔ながらのレコードでかけていた。ピアノがあって、客席はアップダウンがあった。まるで洞窟にはいったようなインナーな雰囲気が私には好ましかった。ここで、鬼山由季(ソプラノ)、寒河江淳二(テノール)両氏に歌っていただく。魔笛の中のパパゲーナとパパゲーノの二重唱がとても印象深かった。たか子さんがキラキラ星変奏曲(モーツアルト)を演奏。また、参加者も一緒に赤とんぼなどを歌った。店の中が完全に一つになったような高揚感があって、充実していた。なおこの時に岡田京子作曲による石川啄木の短歌を歌ったのだが、いまもって私には忘れられない短歌がある。それは、「こころよくわれに働く仕事あれ それをしとげて死なんとおもう」という歌である。若くして亡くなった啄木のこの歌は何とも言えず心に染み、その後よく道を歩いたりしながら口ずさんでいる。
あの狭い、ほの暗いヴィオロンでの時間は至福の時だったと今も思う。弾談の会が皆さんに祝福され、喜んで頂けて、こんなに楽しい時間がこれからもずっといつまでも持てるんだ、と力強く思ったあの日の帰り道の気持を思い出す。
第二回公演「水・ひと・音」 杉並公会堂小ホール 二〇〇八年三月一日 ゲスト陣内秀信さん
ゲストに陣内秀信教授を選んだのは氏が「時のひと」であったこと以上にやはり私たちの高校時代の同級生というつながりが大きい。大学院時代にヴェネツィアに留学、歴史をもった都市の魅力に惹かれ、その後イタリア、地中海世界の都市の研究と同時に、お膝元の東京の調査研究にも取り組んで来られた。私の見たところ、ちょうど東京がウオーターフロントと称して、ベイエリアや河辺を見直して大規模な都市造りをしようとしていた時期と先生の研究が重なっていたので、まさに彼は時代の寵児と言ってもよかった。「一見、歴史を失ったかに見える東京だが、実はこの都市には、場所の記憶、人々の生活と結びついた空間の特徴がたくさん受け継がれていて、興味は尽きない。お台場海浜公園をはじめ、水辺の魅力が戻ってきたのも嬉しい。ここでは、『水の都市』としての過去、現在、未来を語ってみたい」プログラムに寄せられたこの言葉の通り、豊富な映像を駆使してわくわくする発見の喜びをもたらしてくれた。
この公演の企画をもって法政大学の研究室を訪問したことも懐かしい。狭いけれどいかにも「城」という感じがして、研究生活の充実が察しられたのだ。一緒に一つの企画を立ち上げて進めていく面白さを心行くまで味わうことができた。また先生からもそのことを仰っていただき、本当に嬉しかった。一つの企画をゲストの方と一緒に練って作ってゆく、このプロセスの楽しさは、その後も公演のたびに感じることができるものだった。
演奏はMIN―YOⅡ とドビュッシーの水にちなんだいくつかの曲(水の反映、雨の庭、金色の魚など)それに同じくドビュッシーの「子供の領分」後半をじっくりと演奏にあてた。
このころに鬼武晴子さんをスタッフに迎えた。同じ高校のクラスメイトだった鬼武さんは、第一回公演の際、チケットを一番最初に買ってくれたひとだった。まだ海のものとも山のものともわからぬ会のチケットなのに、何のためらいもなく買ってくれたことに感激した。よく海外へ旅行に行っていたので、行動力も抜群だと思い、お誘いしたところ、仲間に入ってくれたのだった。今も大切な仲間として、毎月の会議やぴあ~のの発送などに欠かさず参加している。
この日の公演を期に「水の会」ができた。それについては後述する。

第2回例会 「ROSE」 石橋亭  2008年6月29日 ゲスト笠原耕三さん
第2回例会は薔薇をテーマに、「僕は薔薇の下僕です」とおっしゃる笠原耕三さんをゲストに、荻窪の石橋亭にて開催した。大画面に映し出される薔薇の写真と、歴史、流行、色、香り、などについての話を聴く。笠原さんはご自宅に薔薇園をもち、植物図鑑を出版する方が写真を撮りに来るほど。店内には各テーブルに笠原さん持参の薔薇がたっぷりと飾られ、お手製の薔薇花漬の紅茶、薔薇の花入りのケーキがテーブルに運ばれる。鈴木たか子演奏によるベートーヴェンの「月光」ソナタ、「エリーゼの為に」を聴く。またゲーテ作の「野ばら」につけられた二曲のほかに、鈴木たか子作曲の、黒鍵のみを使用した魅力的な「野ばら」も演奏された。帰りには皆さんに薔薇のお土産が配られた。(会報八号 鬼武晴子)より。
事前に企画について講師の笠原さんと打ち合わせをしたが、その日、笠原さんはどこかへ出かけた帰りだった。カバンの中からそっと取り出したガラスの入れ物に一輪の深紅の薔薇があった。それをテーブルに置いての打ち合わせだったのだが、笠原さんは話の途中で何度も薔薇を見やっては「持ち歩いてしまって、この子にはかわいそうなことをしてしまった」と呟くのだった!
なお、この会の時、鈴木紀子さんが会計を引き受けてくれた。沈着冷静に手際よく受付をしている姿にほだされ、会のスタッフにスカウトしたところ、快くスタッフになってくれた。頼もしい仲間が増えたことがほんとに心強かったことを思い出している。
またこの例会の少し前に結婚して荻窪に住んでいた私の姪でデザイナーの白井洋子に声をかけ仲間に入ってもらうことが出来たことも思い出している。その後はずっと会報の編集、本番の際の作業などに関わってもらう。プログラムなども何回も作ってもらった。多くの人々が、演奏会には行けないときも会報を楽しみにしていると声をかけてくださったが、それはもっぱら彼女に負うところが大きい。
第三回例会 大交流会 ミニヨン 二〇〇八年十二月七日
荻窪にある音楽喫茶ミニヨンにて、ピアノ演奏(ロンドイ短調 モーツアルト 他)のあと、プレゼント交換をした。会員間のトーク&トークが楽しい。白井洋子が可愛いサンタのコスチュームで、プレゼント交換会を盛り上げた。

第三回公演 「宙・ひと・音」 杉並公会堂小ホール 二〇〇九年六月十三日 ゲスト唐牛宏さん
天文学者唐牛宏さんをゲストにお迎えした。演奏はムソルグスキーの「展覧会の絵」を選ぶ。この大曲について、鈴木たか子は次のように書いている。
「……宇宙を描く音楽ではなく、私が宇宙を感じる音楽ってどんな音楽なのだろうか。そんなことをぼんやり考えているうちにムソルグスキーの「展覧会の絵」が浮かんできたのです。
数年前この曲を勉強する機会がありましたが、この曲は『ムソルグスキーがなんとなく行った展覧会で観た絵に刺激を受けてこの音楽を書こうと思ったのではない。突然の死が奪っていった親友ガルトマンへの追憶と挽歌を書こうとした』(団伊久磨氏の著作より)曲であるとのこと。ガルトマンは画家であり建築家でありましたが、急死後半年経ったときの遺作展を訪れたムソルグスキーは『私のなかでガルトマンが湧きたっています。楽譜と旋律が自然に湧き出てきます。まるで鳩のロース焼きのようです。私はそれをたべきれないくらい食べすぎています。そして、どんなに早く書いても書ききれないくらい追われています。』(ムソルグスキーの手紙より)というほどの気持の高まりを覚え、非常に短い期間にこの曲を書き上げたそうです。
外国へ出たことのないムソルグスキーにとって、ガルトマンはヨーロッパへの窓でした。ガルトマンが訪れた当時のフランスは市民革命を経ており、農奴同然の身分に苦しむ自国ロシアの人々とは違う市民たちの境遇を聞き、その明るさに自分たちの国の未来への夢をムソルグスキーは見たようでした。
この曲集にちりばめられた明るい楽しい曲、また一方重苦しく辛い気持ちにさせるky北、それぞれはまだ見ぬ国の人々へのムソルグスキーの想像の産物でしょう。……ガルトマンの死をきっかけに、ムソルグスキーの中に湧き上がったこれらの様々な世界は、ずっと彼が抱き続けていた彼の中に広がる宇宙のよう。伝説から夢まで、母国から外国までと、時間的、空間的にさまざまな異次元の世界を自由に巡る彼の心。その彼は、宇宙遊泳する飛行士が宇宙船にしっかりと結びつけられているように、母国ロシアにつながっています。… いつでも民衆的なもの、農民的なものに特別な愛情をもっていたムソルグスキー。いつも母国にまなざしを注ぎ続けた彼の内面の宇宙は、だから母国という母体が生み出した宇宙だと思うのです。……」(会報九号より)
鈴木たか子は公演の二か月ぐらい前に引いた風邪がなかなか治らず、最悪の体調だったが、稽古を続けた。そして本番ではこの大曲を、魅力あふれるプロムナードのゆったりとした導入部から始まって、キラキラしたチュイレリー公園や、憂鬱な雰囲気をたたえる牛車など、すべてを生き生きと弾ききったのである。終曲の「キエフの大門」では勇壮な響きを力強く漲らせて、目の前にさながらその偉大な幻が浮かんでくるようだった。私の大好きな曲だっただけに、感動はひとしおだった。ゲストの宇宙の話にあわせて、この宇宙的な広がりのある曲を選んだことは素晴らしい選択だったと思う。
唐牛先生の公演では、宇宙を見るための望遠鏡の仕組みを詳しく話されたことが印象に残っている。宇宙とは何なのか、星とは何で、それはどのように生まれ、死ぬのか。星々の元素にまつわる説明のなかで「我々もまた星の死骸からできている」という。新鮮な驚きだった。
この日の参加者の感想を会報(十一号)からいくつか拾ってみよう。
☆宇宙の演奏、吸い込まれそうな気持です。トルネード(宇宙の渦巻き)を感じました。悠久のやすらぎに浸っていると大爆発で目を覚まさせられました。
☆私たちは星の死骸からうまれたということがとても印象に残りました。
☆私たちは宇宙のチリからできているんです」なんてびっくりでした。こうしたお話を聴くと、ちょっと違った角度からひとや物事を考えることが出来て、少し心にゆとりができました。
この日の公演を期に唐牛先生を囲んで「宙の会」が出来た。星好きなメンバーが集まり、国立天文台を見学したり、入笠山観望会を一泊旅行で行ったりした。先生を囲む集いは本当に楽しく、私達は数限りない質問をしたものだ。どんなにトンチンカンな質問にも先生はにこやかに、ふところ深く、真摯にお答えくださった。先生とのやり取りは何と面白かったことだろう。今は米国のスタンフォード大学で教鞭をとっておられる。
第四回例会「MIN―YOの夕べ」 杉並公会堂グランサロン(飲食付き) 二〇〇九年十月十七日 ゲスト安達元彦
例会とはいえ、かなり本格的な演奏を行った。この日を境にMINーYOは私にとって非常に強い印象をもったものとなった。演奏者においてかくもこなれたものとなった曲に、正直、目からうろこ、いや耳からうろこであった。二百回以上も演奏を重ねてきたという。「音楽は演奏され続ける中でその演奏者のなかで豊かに成熟し、輝きと深さを増してゆくものだということを今回ほど強烈に感じたことはありませんでした」会報十二号(市原)
楽しい夕べになるようにとテーブルからこぼれそうになるほど沢山の御馳走が並び、好きな席についていただいた。正直言って、皆様の気が散ってしまうかと心配するほどであった。だが、演奏が始まるとそれはすべてを凌駕し圧倒した。ふだんあまりクラシック音楽を聴かないという若者も、「すごい!」と呟いていた。安達元彦さんが鈴木たか子の為に作曲したこれらの曲は日本の民謡から曲想をえているものの、或る時はジャズのように、或る時は現代音楽のように、自由自在に変貌する。それでいて音階においてあくまでも私たちの心の深い所にある日本的なものへと還流してゆくのである。当時の会報に作曲者と演奏者のコメントが掲載されている。
「……’八九年からの十年間に作曲していただいたMINーYOは全四集になりますが、各曲は今なお、初演以来ひいている私に課題を与え続けています。日本民謡に基づきつつ新しいピアノ手法に満ちているこれらの曲は、私たちの立つ場にしっかり立ち、まっすぐ前を見つめている音楽だと思っています。……」(会報十一号 鈴木たか子)「勝手な言い方だが、鈴木さんの為の作品を書くのには、やはり二十年は必要だったのではないかと、ふりかえって思う。鈴木さんの生き方を、自分の生き方をかけて受け止めてかえすための時間である。鈴木さんは、ピアノを弾くために音楽学校を選ばなかった。ピアノを弾くために職業家を選ばなかった。音楽的環境だとか、音楽的雰囲気だとか、ましてや音壇での認知だとか、同業者間への登録だとか、そんなものを必要としなかった。ただピアノを弾くことを生きようとしてきた。ただ、人と人とがお互いに値踏みしあうような関係の中では音楽が死ぬことを知っていたのである。このような鈴木さんの生き方によって、MINーYOは生み出されたのだと思っている」(『私の岡田京子私の安達元彦 そしてソングたち』(会報十一号に引用。安達元彦)より。