紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

第五回公演「舞・人・音」二〇一一年十一月二十日 武蔵湖公会堂
ゲスト在家育江さん。
私は初めてベジャールの演出による舞踊を見た時の驚きを忘れられない。「ボレロ」と「春の祭典」を観た。人間の身体の動きの、考えられうるぎりぎりの可能性を突き詰めたもので、本当に同じ人類なのかと思うほどそれは美しかった。しかもどこか不思議なユーモアが感じられるのだった。
一度はたか子さんとのコラボで舞踊を上演してほしいと思い続けていた。私の願いがかない、この年はたか子さんの知人の率いる舞踊団のなかから見事な踊り手である在家育江さんをゲストに招いた。
在家さんのしなやかで美しいダンスは、たか子さんの演奏に物語を添えてくれたと思う。曲目はMIN-YOから三曲を選んだ。その他にビオレッタ・パラの「人生よ ありがとう」にも独自の振り付けで踊られた。上演の少し前に京浜居協働劇団の稽古場をお借りしてリハーサルを行った。初めてそんなにま近で踊る姿を見た。できるものならもう一度あの、踊り手の息まで感じられる瞬間に身を置きたいと思う。一つ一つの動きは記憶出来ていないが、音楽が踊り手を獲得し、音楽が本来持っていた生命感が自在に溢れ出してその場を圧倒していた。この上演はかならずうまく行くと確信できた。だが、いくつかのハードルがあって、その意味でもこの公演は忘れ難いものになったのだ。一つは在家さんの体調でもう一つは舞台の設定に関わることだった。在家さんは非常に端正な美しい方なのだが、なぜか公演の近付くにしたがってひどい脱毛に悩まされ始めた。公演の終了したその夜、頭髪はすべて抜け落ちたという。本当にぎりぎりのところであった。スタッフとしては当然心配だった。在家さんは決して弱音を吐くことなく、大丈夫ですときっぱり言いきっておられた。もう一つの舞台のことだが、裸足で踊るため、舞台にマットを敷き詰める必要が生じた。マットのゴムシートは非常に重い。しかもそう簡単に入手できるものでもない。これにかんしては。すべて京浜の方が尽力して下さった。たか子さんとの長い付き合いあってのことだろう。
終わった後皆で井の頭公園の近くのレストランへ繰り出して打ち上げをした。それもまたとても楽しい思い出になった。

第六回例会 「わらべうた・こもりうた」二〇一二年五月二十七日 喫茶ミニヨンにて。
ゲスト安達元彦さん。
例会ということで荻窪のミニヨンを借り切って開催。日本の音階とについて目からうろこのお話をしていただいた。きわめて専門的な内容の話だったが、安達さんのピアノを使ってのお話は分かり易く、たちまち合点することが出来たのは安達マジックとひそかにニックネームをつけたくなるほどだった。日本の音階には三つの種類がある。一つは民謡音階(例として「開いた開いた何の花が開いた」)、陰旋法(例として「うさぎうさぎ」)、琉球音階(例として「耳千切り坊主」)を挙げられた。また鈴木たか子はこの時バルトーク・ベラの「こどものために」を演奏。バルトークが二十世紀の初めにコダーイと共に国内民謡採集の旅をし、思いがけなくハンガリー民謡に5音階の構造を持つもの(ハンガリー民謡の古い形のひとつ)を発見したという。この会もミニヨンがはちきれそうになるほどの盛況だった。打ち上げも楽しかった。

入笠山の観望会 二〇一二年八月十九日~二十日
天文学者の唐牛宏先生をゲストにお招きしたのは、第三回公演だった。このあと唐牛先生を囲んで「宙の会」が生まれた。三鷹市にある国立天文台で、先生はかつて助教授をしていらっしゃった。それで天文台の見学会を二度ほどしたが、実際に星空を見に行きたいとの希望があって、先生に相談した。日本で一番よく星が見えるのは、入笠山か、三浦半島だとのことであった。特に入笠山は、夜空が暗く、その一週間前のペルセウス流星群では、観測のメッカと言われていたそうだ。また周辺は湿原があり、すずらんなどの高山植物が咲き、ハイキングコースでも名高いところだ。
そこで、八月の新月の頃を選んで入笠山のマナスル山荘を一泊リザーブした。二〇一二年八月十九日のこと。マナスル山荘は立派な望遠鏡を備えた山荘で星マニアたちが全国からやってくる。ちょうど夏休みで子連れでの参加者もあった。私は山へ向かって行く道々、空に雲が薄くかかっていることが案じられてならなかった。唐牛先生によると、八月の入笠山はそう簡単には晴れてくれないという。せっかくはるばる東京からやってきて、星が見えなかったらあまりにも残念である。マナスル山荘では、大きな画面で星座の講義をしてくださったが、やはり本物の星空を見なくては、参加者も落胆されるだろう。山荘の人にその心配を話すと夜の十一時には晴れるとのご託宣だった。それが本当に自信たっぷりな口調だったので、私もようやく少し安心することができた。何しろ主催者の心労と言ったら、今思い出しても「ドキドキハラハラ」だったのだ。
参加者は総勢三十五名、幼児から七十代まで、老若男女和気あいあいとした集いとなった。山荘の用意してくれた夕食を頂き、大画面を見ながらの星空の解説を聞いた。また山荘に備えられた大きな望遠鏡で私は生まれて初めて土星の輪っかというものを見た。「なんだかかわいいな」と思い、高揚した気分になったことを覚えている。そのあと三々五々屋外へ出た。かすみのかかっていた空がすっかり晴れ渡り、満天の星空が広がっていた。昔、まだ東京が今のように煌々と電気を灯していなかった頃に確かに見たことのある天の川を目の前に見ることが出来た。何しろ頭上の空が星でぎっしり埋め尽くされているのだ。私はただただ、その星々を自分の体の中に取り入れたいと欲張った。山の斜面の草原を広い道路が貫いていたが、車は全く来ない。道路に上着を敷いてそこに仰向けになった。そんな体験は後にも先にもあの時だけだ。それはなんと忘れ難く、なんと幸せな体験だったことだろう。
また私は周辺の自然が忘れ難い。松虫草という可憐な花を初めて見た。また吾亦紅がたくさん自生していた。落葉松林が山を取り囲んでいたが、落葉松を見たのも初めてだった。何とも美しい樹木だったが、たくさんの樹が枯れていたのが気になった。気候のせいか、環境の変化のせいか、残念でまた痛々しい思いがした。
星を沢山味わったので、短歌を思い出に詠んだ。

これやこの入笠山の道に寝て夏の星座にすいこまれしか
しろじろと銀河ながるる山に来ぬデネブと呼ぶに還らざるかな
きらきらとまた煌めきて風のむた星の深みに喚びかわすなり

以下、参加者の声から拾ってみたい。

わぁっ! 土星の輪が見えたぁ!(吉田兼紀)
八月十九~二十日、宙の会の企画「入笠山天体観望会」に参加した。夏休みの時期はあまり晴れないという入笠山がこの日は運よく晴れて良かった。夕闇とともにいよいよ天体観望が始まり、子どもたち、孫たちの興味津々な眼差しと歓声が印象に残った。マナスル山荘の屋上のドームに通ずる狭い階段に並んで「どんな望遠鏡があるんだろう?」とわくわく。大きな天体望遠鏡を覗き込んで、「わぁっ!土星の輪が見えたぁ!」と思わず歓声。真っ暗な夜道に重たい望遠鏡を引っぱり出したら、「何するんだろう?」と怪訝な顔つき。夜天にセットされた望遠鏡を無理やり覗かされて、「どの星見てんのぉ?」だって。道端に仰向けに寝そべって、漆黒の天井にちりばめた無数の星屑と、天の川を自分の目で直に観て「天の川って、なるほど二本になってるわぁ!」とうなずく顔。きっと普段とはまるっきり別次元の宇宙体験だったのだろう。
そしてまた、宙の演出家お二人とのふれあいは、子どもたちにとってはどう映ったのだろう。この日は何だか謎めいた天文ロマンのお話で子どもたちを果てしない宙の彼方へ誘惑する唐牛宏先生。一方、奇妙な望遠鏡の微妙な操作とカメラ撮影の特技を駆使して、季節や時間帯で変わる星空のさまざまな顔を美しい映像で捉え、星座ロマンを熱く語る山荘主・山本さん。
入笠山の豊かな森と花の自然に浸り、星空を観て、大人のこだわり姿に触れる。これは子どもたちに新鮮な感動をあたえる旅育であった。現在私はさいたま市の小学生たちに公民館などで実験理科教室を実施しているが、教室の一環としてこのような野外教室を加えるのもいいかなと思うところである。(ぴあ~の二十三号)

孫と参加しました。(野見山紘一)
……入笠山(1955M)登山。山頂は360度の日本を代表する山々の展望が素晴らしい。水神の湯にも行き温泉の中では佐治先生ほか多くのメンバーとの裸の交流が出来ました。☆唐牛先生の色々な興味あるお話の中で印象的だったのは「天文学には星座の名前はいらないし僕もあまり知らないが、星座の話から天文に興味を持つことはよい事と思う」とのお話でした。(同)
第六回公演 「情・ことば・音~脳の不思議」二〇一二年十一月二十二日杉並公会堂グランサロンにて ゲスト佐治眞理さん
私たちの友人であり、北里大学の名誉教授である佐治さんをゲストにお招きし、人間の脳の不思議について語っていただいた。のちに佐治さんが出版された『脳地図ガイドブック』(明眸社)の先駆けになったような講演だった。脳の仕組みのうちでも、表現する脳について、情動表現、言語表現、音楽表現を生み出す脳の仕組みを、意識と学習という面から解き明かしてくれた。生まれたばかりの赤ちゃんが、ママの表情から笑いやしかめっ面を模倣することで学んでゆくということを知ってとても面白く思ったことを思い出す。佐治さんとの事前の打ち合わせもとても興味深いことで一杯で、なんとすごい世界だろうと夢中になって話をきいた。これもスタッフ冥利に尽きることだろう。もてなし上手なたか子さんが夕食を用意し、淳さんも一緒にワインを開けたことも嬉しい思い出だ。講演会場に機材がなくてパワーポイントを使っていただけず、手元の資料を使いながらのお話だった。このことでは佐治さんに申し訳ないことをした。参加者からも私たちの配慮の不十分さを指摘されてしまった。
弾と談をセットにすることの難しさを突き付けられた公演でもあった。佐治さんの話をもっともっと聞きたかったという多くの人からの声があった。その一方で、ピアノをおめあてに来てくださった人の中には、お話が難しかったという方がおられた。ここで、私たちは会の持ち方を考え直す局面にたちいたったのである。
なおこの時にはゲストの希望に応え、ピアノ曲はモーツアルトのピアノソナタ十五番、ドビュッシーのいくつかの曲と、アルゼンチンのヒナステラという作曲家の「クレオル舞曲集、そして、バッハの平均律二巻から。その折にこんな短歌を詠んだ。

金色のひかり雫る夜のアラベスクひたすらわれも舞ひつつ消なむ

談の会 中野サンプラザ研修室「今こそ観たい脱原発への映画」」「いまこそ聴きたい脱原発への話」 二〇一三年六月二十三日 映画「福島・六ケ所・未来への伝言」上映
ゲスト中嶌哲演さん
ゲストの中嶌哲演さんは福井の小浜で千二百年の歴史をもつ、明通寺(真言宗)の住職。講演の日程は決まったもののその時に葬儀でもあれば上京はできないとのこと。しかし四十年以上も反原発、反核運動を続けてこられたこの方に、どうしても話をしてもらいたかった。雨の日も風の日も雪の日も托鉢を続けることで原爆の被爆者を支援してこられた方だ。原発は結局膨大な死の灰を生み出す。原発は三つの差別、犠牲の上に成り立っている。地方・僻地という立地差別、被爆労働者、そして「最大の災害弱者は子どもたちであり、また人類以外の生きとし生けるもの、大地、水、森、海、山、すべてが被爆し、それらは食物連鎖の頂点に立つ人間自身、人類全体に跳ね返ってくる。」(二〇一一年九月のNHKラジオ深夜便)
初めてお会いした哲演さんはやせておられた。迎える側の私たちを気遣い、食べるものは握り飯一つで良いとおっしゃる。日夜原発の為に戦い、百戦百敗、いや一回だけ勝った。それは、小浜に原発を建てさせないことができたことだ。議会では原発招致を決定したのに、反対する住民の姿に市長がゴーサインを出さなかったという。今もしばしば断食をし、現地の反対運動の先頭に立っておられる。
この談の会では、哲演さんにお会いしたことがこの上ない経験になった。私が人生で出会ったすべての人の中でもまれな人、聖者の面影をもつ方だ。本当に一途で禁欲的で誠実そのもの。(私の下手な歌集を何故かたか子さんがお渡ししてしまったのだが、それを丁寧に読んでくださり、汗顔の至りであった)。講演では膨大な資料を駆使しながら、原発の恐ろしさを熱心に語ってくださった。
わざわざ遠路おいでいただいたので、一回だけの講演ではもったいないと、たか子宅に若い人たちを集めて話して頂く。また、小金井でも生協関係の団体が設定をしてくれた。
当日の中野サンプラザは研修室が満員で、熱気があふれていた。私たちは万一のことも考え、映画の上映も行うことにしていた。映画は六ケ所村へロケに行ってドキュメントをとってきた作品だ。島田恵監督の「福島・六ケ所 未来への伝言」である。
この度は、ピアノ演奏はしなかった。前回の教訓をどう生かし、これからはどういう形が望ましいのかを考えてのことだった。そこで、この年の公演はピアノ演奏のみを行った。
(続く)