紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

回想録を書くことについて
私にとっては貴重で稀有な弾談の会のスタッフとしての十二年間だったが、果たしてまったく無関係の人にこの経験談はいかがなものなのか。読んでもらうのに、辛抱がいるだろうか。少し端折って書いた方がいいかもしれない。しかし、こういう体験は、ただ楽しかった、良かったという予定調和な書き方では、書かないほうがいい。ここまで書いて来て、ややそういう傾向があるのではないかという気もする。だが、私は無理をしてこういう結論を出しているのではない。その楽しさの内容やかけがえのなさは一回ごとに異なっている。つまり、ケースによってしか語りえないものなのだ。
スタッフとしての関わりは、非常な緊張感があった。営利集団ではないから、黒字をため込む必要はないが、赤字は絶対に避けたい。一回ごとに会計を閉めて収入と支出を出してやってきた。イベント関連のほかに会費の部門での収支があった。収入は会費、そして支出は会報の発行費、郵送費である。十二年間で満席にならなかった公演はほとんどなかった。おかげさまでいくらかの残高が手元に残ったので、会を終えるにあたり、二回のお礼コンサートをすることにした。会場は杉並公会堂グランサロン、ここは飲食もできるので、最後の一回は演奏会のほかにささやかな親睦会も予定している。また、これまでの歩みを冊子にして会員に配ることにした。内容は、会報に鈴木たか子が書いてきたことや、ゲスト、会員が書いて下さったことの再録、演奏曲目の一覧表、会員からのコメントの収録などである。この一冊を読んでもらえれば、鈴木たか子のありよう(音楽の捉え方、演奏者としての感慨、そして何よりも、彼女が何を大切にしてやってきているかということ)そして、これまでの会の活動がほぼ網羅されているということになる。すべての会報とチラシ、プログラムのバックナンバーを机に並べて作業に入った。
今は冊子をつくることに精神を集中させている。特に会報の鈴木たか子の文章は、演奏者にしか書けない色々な発見に満ちている。鑑賞者でしかない私にとり、それはうむをいわさぬ圧倒的な実感の世界なのである。演奏者の言葉に耳を傾けることによって、音楽への理解と愛が深まることは勿論だ。音楽の素養の無かった私は、それまではただ耽溺しかなかった自分の音楽体験が立体的なあるいは俯瞰的ともいえる視点を獲得してより広がりを得たことを感じている。たとえば第二回公演でドビュッシーと安達元彦のMIN-YOを演奏した後の演奏者としてのコメントは次のように書かれていた。(ぴあ~の七号)
「今回を通して、安達さんのMIN-YOは増々生き生きした力がもらえる曲、細部がどんどん語り始める曲だと確信しました」「ドビュッシーの音楽は、けして心地よいばかりではなく、グロテスクな面もアンバランスな面も合わせもっていること、それは、自然をはじめとした自分の外の世界をなんとか音にしようと正直に誠実に格闘しているからではないかと気付き、今まで以上にドビュッシーの音楽に近付けた思いでした。」「演奏を通して、音に内在する音楽が組み立てられていく、直観された作曲者の魂が鼓動し始める。その鼓動に自分の鼓動が重なっていくとき、何ものにも代えがたい心の安定を、私は感じるのです」
あるいは最近の会報(三七号)には、五嶋みどりさんの演奏によるバッハの無伴奏曲について次のような印象深い言葉が書かれていた。
「パルティータ二番には、有名なシャコンヌが最後についています。まずはパルティータの定石通り、アルマンド~クラント~サラバンド~ジーグと舞曲形式の曲を巡り終え、即シャコンヌが始まった時、その未知への大胆極まりない踏み込みにアッと驚きの声を上げそうになりました。この個所にシャコンヌが置かれていること、このシャコンヌは、大きな構築物への成長を予感させる深い情感を内包した揺るぎない主題から始まること、そんなことは知っているのに、それでもなお、その前に弾かれてきた流れをスパッと断ち切り次へ踏み出してゆく音楽の思い切りの良さは、パッと光が射し込むほど新鮮でした」「枠を突破し続けようとする作曲家の強い創造精神に一瞬に射抜かれてしまいました。」「三百年近くも前に書かれた音楽からこんなに瑞々しい瞬間を感じられたのは、そこに何か打ち破り解き放とうとするものがあるからに違いないと思うのです。」
無伴奏バイオリン組曲は私も大好きで、いつも聞いている。一つのメロディが終ると次の曲がはじまる一瞬前に私の頭の中にはもう鳴り始めるのである。勝手知ったる道を行くように、私はその曲を辿る。そして、私はあたかもその曲の核心に到達できそうな気がする。
だが、鈴木たか子のように曲を言葉に表すことができたことはなかった。これはやはり演奏者の述懐だ。それを通して私たちもより深いところへと導かれるように思う。
さて、前置きが長くなったが続きをかくことにしよう。

第七回公演 「バッハ数寄」 ゲスト安達元彦氏 武蔵野スイングホール
二〇一三年十二月十四日
安達元彦先生のお話、そして鈴木たか子とのトークが好評だった。先生のお話のおかげでバッハとの距離が一歩も二歩も縮まったという声を頂いた。先生との連弾(フーガの技法より6番・7番)も素晴らしかったと喜ばれた。この日の曲目はパルティータ一番変ロ長調、平均律Ⅱ巻4番嬰ハ短調、半音階的幻想曲とフーガ、二短調。そしてフーガの技法から五曲。この後の会報で鈴木たか子は次のように書いている。
「私はバッハを弾くことで改めて「音楽への畏怖」と「精神を目覚めさせ続ける覚醒感」と「音楽からのふかぶかとした落ち着き」を得たと思っています。それでもうしばらくピアノを弾き続けられる気がしているのです」
参加者の一人は次のようなコメントを寄せてくださった。
「大バッハの楽曲に浸るように聴いていると、浄化されてただれた心もなめらかにピュアになってゆき、魂に通底して響いてくるものを反復する感じがしてきます。ロマン派の音楽ではこうはいかないのです。鈴木女史の演奏に私の感応した最大のものは〈ゆったり感〉というものでした。爺になるとこの熟成した馥郁たる感覚がなによりもありがたく身体に湧き起こる生のリズムに共振してくるのです。それと演奏家もレクチャーした安達氏も、なかなかの人格者で、名コンビ。コンサート形式も印象深いものでした。 S・I氏」

第七回例会 「うた・ひとびと・ピアノソング」 ゲスト岡田京子さん
二〇一四年六月八日 荻窪の名曲喫茶ミニヨンにて
この日もミニヨンは満席で、岡田さんのアコーデオンに合わせ、楽しく歌ったりお話を聞いたりして過ごした。プログラムはビクトル・ハラのうたによるピアノソング(編曲安達元彦)のあと、岡田さんの作曲による歌。楽譜が皆さんに配られ、声を出す楽しさも味わう。曲目は「ふるさと」「ばらー星野富弘詩」「あさがお―同」「こでまりー同」「筑豊の子守唄」宮沢賢治の短歌による歌。岡田さんは八十歳を過ぎていらっしゃるのにアコーデオンを軽々と演奏された。私がつけたニックネームは「永遠の少女」。岡田さんはそんな感じのする方だ。明るくてピュアな、純真な女性だ。そして落ち着いた指導者としての力を備えておられる。いまその日に配った楽譜をながめて、懐かしくくちずさんでいる。どの曲も歌い易く、そして岡田さんの作曲にはいつまでも歌い続けたくなるような魅力がある。
第8回公演 「海のめぐみ 音のよろこび」 ゲスト大内一之氏
二〇一四年十月一六日一九時から 武蔵野スイングホール
大内さんは風力を主たる動力とする船を考案し、もともとあった帆船を現代でも通用するかたちにするという提案を企業に行ったり、海の深層水を使って漁場を開拓する試みを行ったり、アイデアにあふれた精力的な活動を行っている。失敗することもあるが、前へ進んでゆく力をもっておられ、講演はこれからのエネルギーについて魅力的な話を聞かせてくれた。私達は原子力発電によって手痛い目にあった。だが、原発反対を唱えるだけでは足りないのである。それに代わるものを提案することが大切だ。大内さんの話を聞くと、心に明るい光が射すような気がする。それは彼の良い意味でのオプティミズムによるものだろう。東京大学の研究室を鈴木たか子とスタッフとが訪問した日のことを思い出す。雪のあとの寒い日だった。先生は広々とした会議室に招きいれてくれた。私達の素朴な質問に打てば響くように答えてくれた。彼の考案した立派な帆船の模型が廊下に展示されていた。かれはジャズピアノも演奏するとのことで、当日は坂本九の「上を向いて歩こう」を鈴木たか子と一緒に演奏するというおまけがついて、観客が大いに楽しんだ。
先生のお話をもっと聞きたいという要望があり、二年後たか子宅でサロンをひらいた。

この公演のあとは一年間、円座というかたちで四回のホームコンサートを開催した。二十五人位を聴衆としてたか子宅に集まっていただいた。室内はスタッフの鈴木紀子の飾る花でいつも華やかだった。ささやかな茶菓も用意し、リラックスして演奏を聴いて頂けたと思う。
曲目は、ざっと次のようなものである。第一回 バッハ 前奏曲、 ベートーヴェン ピアノソナタ14番OP.27の2 嬰ハ短調 「月光」、シベリウス 夢想、安達元彦 MIN-YOより
第二回
ほたる。ベートーヴェン ピアノソナタ第15番 OP.28ニ長調、 ヤナーチェク 草かげの小径 より、安達元彦 MIN-YOより
第三回  ベートーヴェン ピアノソナタ26番op81a 変ホ長調「告別」、 ショパン 練習曲3番 「別れの曲」、安達元彦 MIN-YOより
第四回  ベートーヴェン エリーゼのために ピアノソナタ30番op109 ホ長調、
安達元彦 YUKI「わらべうた」による弾き語りを伴うやさしい小組曲、      MIN-YOより

少人数で、ピアノという楽器を身近に感じながら聴く経験はとても喜ばれたと思う。ベートーベンの色々な表情を知ることができた。もともと好きだった曲だが、こうしてたか子さんに取り上げて頂けて、じっくりと聴けたことは本当に幸いだったと思う。
安達さんのMIN-YOも、すっかりおなじみになっているが、たか子さんはその都度熱心に取り組んで、いつもあらたに魅力的な面を輝かせてくれたと思う。この円座シリーズの企画は、音楽の素養の無い私をも、こんなにも遠くまで連れて行ってくれたのだと感慨深い。この年はピアノの円座のほかに、安達円座二回、宙の会(国立天文台見学)、水の会の水上クルーズなどを行った。また翌年には引き続き、大内円座と岡田京子円座を開催した。

岡田円座 「幼い日の記憶」 二〇一六年十二月四日 鈴木宅
岡田さんの満州時代の思い出、そして九州筑豊にそだった思い出をアコーデオンで曲にして歌っていただく。参加者も一緒に歌ったりして、楽しかった。さきの戦争を知る人が少なくなっている昨今、貴重なお話を聞かせて頂けて良かった。参加者の一人、三十代のМさんが寄せて下さった感想を以下に転記してみよう。
お声かけいただいて本当にありがとうございました。あれほどしっかりと戦争のお話を直接聞かせていただくことは初めてです。まずは知ることなのだな……と思いました。
知らないと、心も体も動かないですものね。困難な中でも、音楽家になりたいと思った出来事。今の岡田さんにつながるお話はとても興味を持って聞かせていただけました。
皆さんで歌うことで生きてくる歌も面白いと思いました。(ぴあ~の37号より)
第九回公演〈時代のにおい からだの記憶〉 ゲスト三戸真澄さん
二〇一六年九月一五日 武蔵野スイングホール にて
この日の演奏は、ヤナーチェクの 「1905年10月1日 街頭にて」とビクトル・ハラの「仕事の道すがら」、そしてベートーベンのピアノソナタ「テンペスト」。
そして、ゲスト三戸さんのかっぽれと都々逸、そのあと構成された朗読と音楽の「明日へ」を上演した。
ゲストの三戸真澄さんは、若いころに一つの経験をされてそれをもとに人生を決定したという経歴の持ち主である。その経験について書いてくれた彼女の文章は、数ある会報誌の文章の中でも出色のもので私は深い感銘を受けた。
50年前、まだ高校生だったとき、朝鮮学校の存在を知る。交流会ということで希望者十数名、朝鮮学校へ行った。学校に着くと、生徒たちが元気に「アンニョン、アンニョンハセヨ」と口々に声を掛けてくれた。自分たちは小さい声で「こ、こんにちは」と返すのがやっとの緊張状態。校内を案内され、歌と踊りで歓迎された。チャンゴの音が鳴り響き、民族衣装に身を包んだ女子たちが躍る、その笑顔の美しいことと言ったらなかった。躍動感一杯の清々しい踊り、男子がかける「チヨッター(いいぞ)」の掛け声に、踊り手のよろこびが弾けた。このようにその日の出来事を描いたあと、三戸さんはこの経験について、次のように書いている。
「同じ世代の人たちが自分の国の歴史・ことば・文化をしっかりと学び、それを喜びとし、朝鮮民族であることの誇りを失わないで生きている姿を目の当たりにしたこの日の経験は、私のその後の人生を決める大きなきっかけになりました」
三戸さんは高校卒業と同時に北海道の民族舞踊団・こぶし座に入座。それから三十数年、日本の民族歌舞に携る道をひたむきに歩み続けてこられた。
私はこれを読んで、自分の民族性にしっかりと立脚して初めて今の日本の政治的な動きも見えてくるものがあるはずだと気づいた。若き日の三戸さんも、同年代の若者の素晴らしい民族への自覚と誇りを見て、目覚めたのだ。目覚める所までは、鋭い思春期の感性をもてばできるだろう。三戸さんの凄い所は、そういう感激をそのまま生き方に直結させたところである。そして、今日に至るまで継続なさったことである。
三戸さんの可愛らしいかっぽれと、三味線を使っての都々逸はとても愉快で会場は湧いた。また、「明日へ」というコーナーで、原発事故にまつわる朗読と音楽をたか子さんが構成した。事故現場で働く労働者の言葉を朗読、またチェルノブイリの子どもの詩を朗読した。つらい事故のあとにも「明日」は来る。つらくても生きて「明日」を迎える他はない。最もつらい事故現場で働く人の声を謙虚に聴こう。たか子さんのそんな思いのこもった「明日へ」だった。まず福島のわらべ唄「カラスカラスどこさ行ぐ」そしてベラルーシの子どものこえ (『チェルノブイリの祈り』より)そして、福島第一原発収束作業員のこえ、である。三戸さんと鈴木たか子の共同作業で「明日へ」は少しづつ形を成していった。二人の息がぴったり合い、すばらしいコンビネーションだと感銘を受けた。三戸さんは一途でまったく飾らない人で、生き生きとかっぽれをおどり、都々逸でみんなを沸かせ、そして「明日へ」では現代の悲劇に直面させてくれた。けして激しい追及をするのではなく、しみじみと生きることの辛さと切なさと苦しさ、そして希望を伝えてくれたのだった。

第十回公演  「なつかしさを明日のよろこびに」ゲスト竹内玲子さん
二〇一七年十月九日 武蔵野スイングホール
演奏は、シューベルトの晩年のピアノ曲。(三つのピアノ曲、ピアノソナタ二十一番)
そして安達元彦作曲のMIN-YOから
ゲストは瞽女唄の伝承者である竹内玲子さん。すでに日本には「絶滅」した瞽女であるが、竹下さんはその最後の弟子である。祭文松坂「葛の葉子別れ」という印象深い物語をじっくりと歌いあげた。 そのほか、鈴木たか子との共演として杓子売唄と、わらべうたを歌った。竹下さんはかなり長い、二十五分位の「葛の葉子別れ」を最後まで力強く歌い切った。五分も経過するともう全身汗まみれになるのよ、と言っておられたにもかかわらず、調子を落とすことなく歌いきってくれたのだ。狐のお母さんから生まれた賢い子ども。ついに狐が山へ帰る時がきた。子供にやさしく別れを言い聞かせるお母さんの心がせつなく染みて涙がこぼれそうになる。ラジオやテレビなどの娯楽のなかった江戸時代、瞽女は日本中の農村の人々の待ち焦がれる存在だったという。目の見えないハンディを持ちつつも集団を形成し、国中を巡り歩いた人々のことを思った。竹下さんは毎日、朝ごとに一人で稽古を積んでおられるとのことだった。声に張りがあってマイクなどまったく使わず、素晴らしい声量で会場を圧倒した。

鈴木たか子の「やっぱり」に拍手。
途中を少々端折ってしまったが、大まかな流れは書ききれたと思う。改めて鈴木たか子の努力と持続に頭が下がる思いである。
私のことを言えば、粗忽者なので、チケットの販売などでは間違いがないように注意に注意を重ねた。チケットを郵送する際には一人一人に必ず肉筆でお礼を書き添えた。まあ、それなりに頑張ったのだが、そんなことも私のよい経験になった。
それより、一番印象に残っていることは、鈴木たか子の粘り強さである。第一回の演奏の時、リハーサルをしたのだが、「ピアノの音がべたべたしている」と安達さんに言われた。ベヒシュタインというピアノの特性でもあった。だが、たか子さんは「もう一回リハーサルをさせてほしい」と申し出た。お金もかかるし、労力もかかるが、納得がいく形を求めての事だったので、勿論了解した。ピアノの位置を正面から側面へ変更した。この時の会場はフラットで、壇上で演奏するスタイルではなかったので、そういうことが可能だったのである。その結果、聴衆がピアノを取り巻く形になって、音も良くなり、無事に本番にこぎつけた。あのときは感心した。ダイ・ハードな人だと心底驚いた。
プログラムを決める際の曲の選定も、ずいぶん変更があった。鈴木たか子は納得がいくまで考え抜くひとだ。会報にも書いたが、このセンで行こうと決定し、すっかりその気になってると「やっぱり……」と、たか子さんから再提案がはいる。私は、すべての公演が上首尾に行ったのは決して偶然ではなく、このような周到さがあったからだと気が付いた。「やっぱり」の鈴木たか子は、やっぱりすごい。プロフェッショナリティと言ってしまえばそれまでのことだが、私のように根性というものが全く欠如していて、いい加減に生きて来た者にとっては驚くべきことで、実に学ぶところがあったことを告白しなくてはならない。(だからと言って私のいい加減なキャラが治ったとも思えないのが残念だが。)
十二年間も一緒に活動させて頂けたことに感謝で一杯だ。会を支えいつも励まして下さった会員と聴衆の皆様にも、ただ感謝の気持ちあるのみ。
老後の楽しみのため、と始めた弾談の会。だが、楽しみ以上の、この上なく深くて大きい恵みを頂いたのだった。
二〇一八年五月