紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

解説          桜木由香
この歌集は若槻敦子さんの第一歌集である。縁あってこの歌集を編むお手伝いをさせて頂いた。原稿を拝見していると静かな八王子の高台での生活ぶりが目に浮かんできた。豊かな自然に囲まれた土地で日々をかさねることそれ自体が、恵みであるように思われてきた。。見えるもの、聴こえてくるもの、香り、四季。さりげない歌のなかに作者の周到な目配りが生きている。

窓近くじいいとのぼるけらの声六月の夜のふけたるころに
庭面おほひ茂れる蕗の葉に春の雨降るしくしくとして
冬物をたたみてをれば薔薇の香の昇り来たれり二階の窓に
左より朝の光のおよび来て雪積む富士は輝きを増す
鉦叩き、閻魔蟋蟀、草雲雀、目つむりて聴く夜の湯槽に
敷石の隙にむらさき花韮の星ひとつ輝る空を流れて
落下する水より水の尾の生れて池の渚へ広がりてゆく
吾が裡らしづむるごとくしやがのはな白白と咲く夕暮の坂

一首目は「じいいとのぼるけらの声」にリアリティがあり、魅力的な歌だ。二首目の「しくしくと」は、本来「寄せる」にかかる副詞でもあるのだが、ここでは春の雨のオノマトペとしてユニークでとても効果的である。三首目は窓辺にのぼってくる薔薇の香が嬉しい。鳥たちの囀りや虫の声の届く窓は、富士の一望できる窓でもあり、洋裁に勤しんだり、家事をこなす作者の日常を自然界へとおし開き静かに解放する窓でもある。終わりから三首目の花韮の歌には、作者の想像力が生き生きと働いており、花韮と星とが一首のなかで一つのものと捉えられている。次の落下する水の歌には「水の尾の生れて」に作者固有の発見がある。また最後の歌は、結句の「夕暮の坂」が美しい。この結句によって一首全体が暗喩であるかのような余韻を残す。

作者をめぐる家族像は、とても優しく心惹かれる。とりわけ、夫君との生活には静かな佇まいが感じられる。夫君が病を得て入院をされた折の歌は、細やかに詠われていて自ずと快癒への願いが読む者の心にも湧き起こってくるようだ。

チューリップの球根を植う再びの入院近き夫とゐる日に
購ひ来たるズボン二本の裾を上ぐ病みて痩せたる夫のために
吾が思ひ声になすがに百舌鳥一羽鋭く鳴けりアンテナの上

この三首は夫君に病気が見つかった際の歌で、けして作者の気持を詠んでいるわけではないのだが、チューリップの球根やズボンの裾と言った具体が読者に辛さを伝えてくれる。そして、三首目に至って、百舌鳥の鋭い声に心のすべてを託しておられる。連作の凄みがここにある。

口紅を濃いめにつけて囚はれの夫の待ちゐるB病棟へ
胸の芯ふるへてならぬ丁寧な執刀医師の説明をきく
五時間の夢の国より戻りたる夫と短き言葉をかはす
川遊びする子供らを見下ろしぬ浅川わたるバスの窓より

この一連はその手術の日のことを詠んでいる。一連の最後に病院よりの帰路見た子供達の遊ぶ姿が置かれている。子供達の無心に遊ぶ平和な光景が、作者の緊張した眼差しで捉えられている。じつに現実のもたらすこの落差こそが、私達に人生を感じさせてくれるものであろう。これは連作ならではの効果で、読者を静かな感動へと導くのだ。
さらに家族を詠った歌をみていきたい。外国で暮らす息子さんを案じたり、息子さんの亀を預かったりしている歌に作者のストーリーを見ることができる。お子さんたちの幼かった頃の歌もいくつかあり、どの歌も愛らしい。

スカイプに顔の映れば少しだけ髪整へて息子と交信
玄関に声のはずみて走り来ぬ幼き手には蝸牛持ちて
幼にも幼の意志の芽生えきて好きな電車のそばを離れず
お隣の耳をはばかり二階にて夫の歌ふ第九交響曲
夫の指す枝に雀子三羽ほど膨らみ止まる二月の風に
手のかかるホシガメ二匹を息子は残す十日も飼へば可愛ゆくなりぬ
大地震に帰れぬ娘を案じつつ帰宅難民とふ言葉かみしむ
いつの日か離れゆくらむ八階の茶房に娘と語らふ時間
ともかくも癒えゆく夫と御本尊拝みしことを喜びとせむ

一首目、いそいそと息子さんのスカイプに向かう母親としての姿が自己客観視されている。二首目、三首目は息子さんの幼い頃をさながら現在のことのように詠んでいる。幼い存在へ注がれる眼差しは温かく、ここでも作者は客観的にあるがままを詠んで、この上ない愛らしさを読者に伝えることができている。四首目、五首目には夫との生活の一コマが
さりげなく伝わる。終わりから三首目、あの東日本大震災の折の帰宅難民のことなども娘さんを通してリアルである。

結婚してほどなく、若槻さんはお母様を亡くされたという。お母様への思慕は全編に通奏低音のように行き渡っているようだ。厨歌にも、宙を詠った歌にも、ふとした折々の思いはお母様へ繋がってゆく。またお母様亡きあとのお父様の後姿が一人の娘として温かくとらえられている歌も印象深い。月の扉として小題を掲げた一連の導入部、お母様のいのちがご自分の胎内の子供へと繋がってゆくという実感が、鮮やかである。

看取ることもせずに逝かせし母なりき産み月近き吾なりしかば
経あぐる僧侶の声の聞こゆるや胎内に児のしきりに動く
吾が編みし紫モヘアのカーディガン持ちて逝きたり遠き国まで
顔上げてこぼるる涙をこらへゐつ電車の窓に母思ひつつ
わが息子三十歳は母の無き三十年なり弥生一日

法要の席に読経の響くときパナマ帽被る父の佇ちたり
青空に映れる月の扉ありノックをすれば母答ふるや
母逝きて父もなき駅窓に過ぎ吾が胸裡にさざ波の立つ
母の後姿佇ちてきぬ黒豆の煮ゆるにほひの厨に満ちて

そしてそれらの歌に混じって、「童話が好き」という作者の童心が見えてくるのがとても楽しい。そのような童心にこの歌集の個性が最もよく出ていると思う。日常のなかにふと空想の世界がひらける、すると、思いがけぬ深い異次元が垣間見えることがある。編集のお手伝いをさせて頂く中で、私は小題にはファンタジックな感じのする言葉を拾って編んでみたのである。拾ってみるとそれらの歌はかなり沢山ある。時には赤毛のアン(モンゴメリー)の世界へ入りゆき、また「モモ」(ミヒャエル・エンデ)の「時間ぬすびと」が登場する。アトランダムに幾つかをあげてみたい。

蕗の葉の森なす土の面には虫の国など出来てゐるらし
馬刀葉椎その長き実を園児らが声あげ拾ふ吾はも拾ふ
里芋の葉の広がりてその下に里芋の精棲みてゐるらし
二つ三つどんぐり拾ひ山猫の童話の森へわが入りゆく
灰色の時間ぬすびとに盗まれて今年もすでに大晦日来ぬ
電線に鵯の親と子なに話す鳥の耳して窓辺に聴かむ
池の面に映るけやきの影揺れてゆらり入りゆく異次元の界

蕗の葉の下に「虫の国」を空想し、里芋の葉の下に妖精の存在を感取する。童話の世界の「時間ぬすびと」が現実の生活に顔を出す。鳥たちの囀りを「鳥の耳」をして聴いてみようと思う。とりわけ二首目の歌は「拾ふ」という言葉のリフレインが拾っている動きへと読者を導いてくれる。童心が素直に出ており、集中の秀歌とも思う。

歌集を読み進めるうちに、地上にある万象が作者と存在の時を同じくしていることへの、ある敬虔な発見と感動が静かに歌のなかから現れてきた。それらの歌から特に好きな歌をあげ、この稿を閉じたい。
桜花見上げてをれば音もなく宙の奥より花こぼれくる
昼昏く繁る木立の奥処より翅黒蜻蛉の現れて来ぬ
色紙を折りてつくりし風船はぽーんぽーんと時空を超えて
霧雨に多摩の山山けぶりゐて花明かりする木犀にほふ
赤い靴さはに吊して烏瓜まだ来ぬ侏儒の客人待てり

二〇一七年九月