紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

 昨年十月に上梓された本歌集は多くの話題を呼び、日本歌人クラブ南関東ブロック優良歌集賞を受賞した。二〇〇七年から二〇一七年までの歌が収められており、その間にあの福島第一原発事故が起きた。この歌集の通奏低音となっている故郷福島に関わる歌が、苦しみ悩む多くの人々の共感を呼んだのだと思う。
原発事故
 作者は一九五三年生まれ。八二年から作歌を続けている歌歴の長い歌人である。林間・まろにゑ同人。林間の歌人であった服部童村さんに見初められて子息と結婚、埼玉県へ移住した。母をはじめ、多くの親族は今も福島に在住しておりたびたび訪れている。生まれ育った福島に降りかかった出来事を作者はどう歌い留めてきたのかを見よう。
①ふくしまに死の雨が降る三・一一家に籠れる母の声聞く
②フクシマを遠く離れて吾が姉はようやく大きな深呼吸する
③炉心溶けいまなお空を覆うらし常磐道は4シーベルト
④「またどうぞ」大熊町の看板が破れて風に吹かれておりぬ
 歌集の跋文によれば作者の実家は川俣町である。町の一部は避難区域であったが後に解
除となった。実家は幸い避難区域にはならなかったが道路整備によって立ち退きを迫られている。だが母は今もがんとして住んでいる、とのこと。
 一首目の「母の声聞く」には放射能の危険を顧みない母への思いが籠っているようだ。二首目、目にみえない放射能だが、そこに住む姉は深呼吸さえままならぬ気持でいたのだろう。埼玉を訪れてほっと一息ついた様子がありありと描かれている。またその姉の姿を通して福島に生きる人々の辛さが静かに浮かび上がってくる。四首目は、大熊町の看板がアイロニカルに描かれ、事故のもたらした悲劇を端的に語っている。事故にまつわる歌は集中に約二十四首みられる。危機感のトーンはけして声高ではない。だが、いやそれだからこそ、静かな語調に怖れと悲しみと不安が読む者の胸にそくそくと伝わってくる。
ふるさと喪失の受苦と家族への愛
 ところで産土、すなわち故郷とは人間にとって如何なるものだろう。その言葉は土地(風景)や環境だけをさしているとは限らない。そこに存在していた親族をはじめとするコミュニティ、またそのコミュニティが共有している言語や食物や日常生活や祭などのすべてが「故郷」という言葉に繋がっている。またそこに流れていた時間そのものも「故郷」といえないだろうか。なぜなら、幼い日々によって象徴される過去のすべては「故郷」という概念に含まれうると思うからだ。時間という不可逆的な流れによって私たちはたとえ身体は故郷の土地にあってもどうしてもそこへたどり着くことのできない宿命を負っている。だから故郷喪失は、すべての人間の心にふりかかることだ。そのような根本的な故郷喪失に加え、このたびは事故によって暴力的にその風土を奪われ、コミュニティが解体させられた。この事態に直面する人々の辛さを何に例えたらよいのだろう。
避難区域であろうとなかろうと、事故の影響下にある福島が放射能の危険をまったく無であるということはできなかった。福島はもう元の福島ではなくなってしまった。そこに生まれ育った人々にとってそのことは切実な現実だった。作者の母は危険を冒してでも避難しない道を選ばれた。家族たちがすすめてもどうしても動かれなかったという。
 この歌集には圧倒的に母が歌われている。また娘や夫、姉、義父母の歌が頻出する。母の歌は約一割、四十一首を数えた。娘の歌は二十三首、その他の親族の歌を合計すると九十七首あった。三百八十三首の全体からすると四割に近い。それは暖かさと優しさ、そして時にユーモアが溢れ、本歌集をどっしりとした存在感のある一冊にしている。思うに、作者はこのような形で、喪われた平和で安全で豊かな故郷に向き合おうとしているのではないか。つまり、生きてある限り喪われることのない愛をもって、一つの受苦の形を見せてくれたと思うのだ。放射能に汚染され、汚染土の積み上げられた無惨な故郷は、家族への愛の中に今なお大切に保たれていて、本来的な「故郷」を作者の中に再構築しているようにさえ感じられる。それは、母の歌だけではなく現在の埼玉での生活の中で培われている夫や娘への想いも含めて言えることだろう。
 印象深いそれらの歌のなかからいくつかを挙げてみたいと思う。
ふるさと
①ふるさとは絵本の中の一ぺーじ開けば母の笑顔に出会う  
②ふるさとは絵本の中の一ページ祭り囃子の笛の音踊る
③ふるさとは絵本の中の一ページ屋根に寝ころび見た流れ星
④はつなつの川のほとりにふるさとの蛍が曲線とぎらせて飛ぶ 

①舗道を転がる枯葉からころと母の機織る音よみがえる  
②卒寿越えうからら集う温泉の記念写真に母は恥じらう 
③花図鑑開き朝陽を受けながら母と猫とわれの縁側  
④弟切草摘みきて干して漬けている母の短き十指の動き  
⑤支えられ椅子に座りて吾を送る母は夕日に溶けこんでいる  
⑥食みしまま眠れる母よ今しばし声を聞かせよ便り書かせよ  
⑦哀しみは唐突にくるわれの名を忘れし母の声は穏やか  
 歌集は編年体によって編まれており、順を追って母なる人の変化を辿ることができる。昔は力強く機織りをしておられたが、今は卒寿となって親族にかこまれ、記念撮影に恥じらう朴訥な母。日向ぼっこをしているのどかな光景、あるいは薬草をこしらえる甲斐甲斐しい姿も詠われている。やがて物を食べながら眠ってしまう頼りない老耄の姿を詠い、「今しばし声を聞かせよ便り書かせよ」と胸中からほとばしる声を素直に詠んでいる。ついには愛娘である自分の名前も忘れてしまう母となる。その哀しみはいかにも唐突に来たのであり、作者は驚きを声にださずにぐっと呑み込んでいるようだ。おびただしい母恋歌を前に、プロセスのすべてを肯い、辛さも含めてまるごと受容しようとしている作者の「今」を思う。

①娘の背(せな)にまわり棒編み教えおりネイルアートの華やげる指  
②つらく長い静かな戦さ終わるよとニキビ光らせ試験に行く娘 
③反抗期に蹴りたるドアの足型を残して娘は嫁ぎゆくなり  
④ビル街を朝陽は黄金(きん)に染めあげて駅までのみち娘と歩みゆく 
二人の娘さんのことを詠んでいる。とくに三首目は生き生きと活写されていて、家族だなあとしみじみ思わされたが、同時に何とも言えないユーモアが感じられた。四首目は二人が歩いてゆく光景だが、静かな朝の光が母娘を祝福しているようにも思われる。
夫(僕)
集中の傑作は「僕の時間」の一連をはじめとする、「僕」の歌だろう。「僕」をとらえる作者の眼は温かく笑みがこぼれる感じがする。
①僕の撮る花の写真は薔薇よりも虫に焦点合わされている  
②ごきぶりが出現すれば「お父さん」と家族揃って声高く呼ぶ  
③好物を問われて僕は手料理の並ぶ皿からさしみと指せり 
④定年を過ぎたる日々にペダル踏む時を自在に駆けている僕  
「僕」は薔薇よりも虫に焦点をあわせる少年のような心をもっている。ごきぶりが出現
すれば家中から助けを求められる頼もしい存在だ。それでいて、三首目、手料理の並ぶテーブルの上を見て、それを作った人のことなどいちいち気にもせずに、一番好きなのは手料理ならぬさしみであると無邪気にも宣う。そして四首目、定年を過ぎて自在に街を自転車で駆けている。どこか母性的に見つめる作者の眼が温かい。
 このようにラインナップしてみたが、生き生きと描かれている歌歌のなかに作者は自分の本当の意味での「故郷」を見出そうとしているような気がする。そうだとすれば、新しい希望が、回復がそこには息づいているだろう。存在感あふれるこの歌集を読む者の幸せもそこにある。
感覚の特異性と詩について
 第一歌集「素足の幻想」にこんな歌があった。「バラの花に噴霧しておりその後に消毒された私がいる」普通私たちにはない視点がここにある。第二歌集には次のような歌がある。
①解かれたる紐が隣の靴紐に組み直されて街を闊歩す 
②仏像の簪揺れて影ゆれる人動くたびまばゆく揺れる 
③天井に影たちあがり動きだし忙(せわ)しき今日の朝が始まる  
④ほの暗き長き廊下にすくと立つ黒人女性の白きエプロン   
⑤膨らます風船ふいに手を離れ無軌道の線つくりて凋む  
⑥水平に両手を広げひと回りたったこれだけわれの空間  

 特に一首目と五首目の歌は特異性が際立っている。視点の逆転が効果的に作用している。バラの噴霧、靴紐、風船の凋むときの歌には、日常性とのギャップに詩が生まれるように思う。二首目は影に焦点をあわせている。まばゆい影を見つめることで仏像のリアルが生きてくる。三首目は家族の動きを天井の影で表現しようとしている。現実から一歩ひいた幻想的な視界がひらけているように思う。四首目はパリのホテルでの一駒であろうか。白いエプロンが鮮やかである。旅先で研ぎ澄まされた感覚が絵画的な情景をデッサンしたのであろう。五首目は急速に凋む風船を「無軌道の線つくりて」と対象に肉薄して詠んでいる。作者の面目躍如としている。六首目は妙にひっかかる歌だ。本当にそうだろうか。物理的な空間を超えて、視野にはいるものもまた「われの空間」ではないのか。逆に「空間」と「われ」について考えさせられた。ともあれ通常は気付かずに通り過ぎてしまう瑣末な光景を切り取るのが作者の特異性である。それを摑むのは難しいが、巧みに詠いとってきた。今後も面白い世界が開けてゆくような気がしている。
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最後に私の好きな歌を曳き、稿を閉じたいと思う。全体に把握がのびやかで大きくしかも
的確である。とくに⑥の桃、⑦のマスカットの歌は美しく愛唱性のある秀歌だと思う。
①散りしきる公孫樹並木を仰ぎつつわが身は金色(きん)のただ中にいる p96
②ボストンの擬宝珠の咲く中庭をみどりごの父帰りきたれり  
③煌々と月のひかりは溢れいて娘の住む町の踏切わたる  
④春遅き古里に咲く八重桜もう帰るのか母の問う声  
⑤日輪が薄き雲間に淡く浮く四半世紀過ぎ僕と行く道  
⑥包丁のひかりひらめき手のひらにふわりと桃の子午線は浮く  
⑦手のひらのこのマスカットあおあおと吾が静脈の蒼と鼓動す

2018年8月17日