紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

今ちょうど聖書講読の講座でヨブ記を読了したところだ。これまでもヨブ記については
折々触れてはきたが、この際まとめて書き留めておこうと思う。

ヨブ記とは
ヨブ記は旧約聖書の中にあり、歴史書や預言書とは区別され、教訓書と呼ばれている。つまりここに書かれているのは実際にあった出来事ではなく、文学形態をとって何らかの思想、教訓を伝えようとしたものだ。ヨブ記は一章から四七章までにわたって書かれている。その一部はBC二〇〇〇年頃の伝承で、大変古いものだ。一章、二章、そして最後の四二章の七節から十七節(最後)までがその古い伝承に基づいている。三章以下は戯曲形式になっており、この部分はバビロン捕囚のあと、BC四世紀頃のものとされている。いずれにせよヨブ記としてまとめられたのがこの頃であろう。バビロン捕囚によって国が崩壊した当時の人々は因果応報の思想にがんじがらめになって絶望的になっていた。自分がどんなに頑張ったって、どこかで先祖や身内が犯した罪のせいで今の境遇があるのなら、もうどうしようもないではないか、というわけだ。そのような状態に陥っていた人々を励ますためにこの物語が書かれたとも言われる。
ヨブの物語
ウツというところに東国一の富豪、ヨブと言う義人がいた。非のうちどころのない人で遊牧民の族長であり、七人の息子、三人の娘と、子供にも恵まれていた。自分のあずかり知らぬところで家族が罪を犯しているかもしれぬからと、定期的な燔祭を捧げる敬虔な人だった。「彼のような男は地上に二人といない」と神が言う。するとサタンが「何の益も無くてもあなたを畏れるでしょうか」と言う。「いっぺん、彼の持ち物を一切合切打って御覧なさい」そこで神はサタンにヨブの体には手を触れるなと言って、サタンにすべてを任せる。
ヨブの子供らは死に絶え、財産はことごとく失い、家も使用人も失う。するとヨブは言う。
「私は裸で母の胎を出た。また裸で、そこへ帰ろう。主が与え、主がお取りになった。主の名は祝されますように」ヨブ記二章二一節。
サタンはさらに神に言う。「人は自分の命のためなら、持ち物一切を差し出します。彼の骨と肉を打って御覧なさい」神はサタンに、身体を苦しめることを任せた。ヨブは体中腫れものだらけになって陶器のかけらで体中を掻き毟りながら灰の中に座っていた。哀れなヨブに妻が言う。「あなたは神を呪って死んだらよいでしょうに」するとヨブは言う。「わたしたちは神の手から善いものを受けるのだから、悪いものも受けるべきではないのか」
そこへ三人の友が遠路やって来て、ヨブを見る。余りのありさまに声を上げて泣き、七日七夜ヨブと一緒に地面に座っていたが、余りにもヨブの苦しみが酷かったから、誰一人彼に語りかけることはできなかった。やがて友人たちが口々にヨブに語り掛ける。罪がないのに滅ぼされたものがどこにいるだろうか。ヨブよ、お前もなにか悪いことをやったに違いない。人々を搾取したり貧しいものを放置したりしたのだろう。お前のありさまは全能者の懲らしめなのだよ。ヨブはそれに対して答える。自分はこのような懲らしめを受けるような悪事をやってはいないと。そしてしまいには、頼むから少し黙ってくれと言う。それでも友人たちはその頃のユダヤ思想の根幹をなしていた「因果応報」を述べ立てる。ヨブはそれに対し、このような懲らしめをうけるほどのどんな悪を働いた覚えもない、願わくば神と直接話し、神に自らの義なることを知ってもらいたいのだと言う。ヨブは神に向って直接呼びかける。

あなたがお呼びになればわたしはお答えします。あるいはわたしが語り、あなたがこたえてください。私はどれほどの悪と罪を犯しましたか。私の咎と罪を知らせてください。なぜみ顔を隠され、私をあなたの敵とされるのですか。(同 十三章二二節~)

三人の友人たちがそれぞれ雄弁に語ったあと、若い友人が颯爽と登場し、神の偉大さを説き、宇宙の創造の偉大さを語る。この部分は後世の加筆であると言われている。
ヨブと友人たちとの論争が終わったとき、ついに神が天からヨブに語り掛ける。神は天地創造の偉大さを語り、天空や気候のこと、地上の生きとし生ける動物たちについて語る。そしてヨブに「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか、神を責め立てる者よ、答えよ」と言う。ヨブは自分の卑小さに気づかされ、自分がすべてに無知であったことを知る。ヨブは神に向って、「あなたはどんなこともおできになり、どんな計画でも実行できない方ではないことを、私は悟りました」と言う。
ヨブは神から祝福され、以前に倍する財産や繁栄を与えられ、沢山の子供達も生まれた。
因果応報の思想を強要した友人たちはヨブの仲介によって神から許される。
以上がヨブ記のあらすじである。聖書の講座「聖書百週間」でシスターに教えていただいた事などをもとに、ヨブ記を考えてみたい。

神の主権
まず最初の試練でヨブが言った言葉、「主は与え、主は奪う。まことに主の名は祝せらるべきかな」の所について、私も良くこの言葉を実感する。十六年前の、夫が亡くなった五月三日、武蔵野日赤の病棟から亡きがらを運び出していた時私はその日が私達の結婚したまさに同じ日であったことを思い出した。私がその続きの言葉「まことに主の名は祝せらるべきかな」に辿り着くまでには長い時間がかかったのだった。今も親友だった由美子さんのことを思う時、やはりヨブの言葉を想起せずにはいられないのである。
どうせ奪われてしまうのなら、初めから与えられない方がよかったのか!……と思う時はじめて、与えられていたことの至福が強烈にわかるような気がする。零ではなかったどころか、それに比べたら無限大だったのだと。ヨブの言葉の深さを噛みしめる私なのだ。

ところでヨブの出身地はウツと書かれている。ウツはどこなのかははっきりしないが、死海の南東にあるエドム地方ではないかと言われている。だがその一方、創世記や歴代誌にはウツという人名がアラムと並んで記されており、アラムだとするとガリラヤ湖より大分北の方になる。当時は人名が地名になることがあった。いずれにしてもヨブ記が外国を舞台に設定されていることに注目したい。この物語が書かれたころは知恵文学が台頭していた頃で、知恵なるものの国際性、普遍性を作者は強調したかったのであるらしい。同じ意味で三人の友人達やヨブ自身の名前もユダヤのものではないということだ。
主は全能の神であるからヨブが義人かどうかは試練にあわさなくても分かったはずである。(実際、ユングの「ヨブへの応え」(みすず書房)にはそのことが強調されている。)
聖書百週間の講座でシスター永田は、神はサタンとの競争において、ご自身の栄誉をかけることで、ご自身を啓示されたのだと解釈された。
ヨブ記では神の現在(プレゼンス)と不在の問題が浮上する。神は人が理解する神ではないということを体験を通して考えるヨブの姿があり、人生と信仰の意味を問いかけている。
二三章には次のようなヨブの嘆きが書かれている。
今日もまた、わたしは反抗的に歎き、
神の手は、私の呻きの上に重くのしかかる
ああ、神に会える所が分かれば
わたしはそのみ座まで行きたい。
わたしは神の前にわたしの訴えを並べ立て、
口を極めて論じたい。
……
だが、わたしが東に進んでも神はそこにおられず、
西に進んでも
わたしは神を見つけることができない。
北を探しても、わたしは神を見つけられず、
南に向きを変えても、
わたしは神を見ることができない

ヨブは絶望と信頼のあいだで揺れ動きつつ神に立ち向かう。三八章以下で神が直接ヨブに呼び掛けた後、ヨブは初めて自分が無知であることを知る。自己の正義と潔白にしがみついていたヨブだったが、創造者である神の自由さと尊厳に直面して、初めて自分中心から神中心に変わった。
その時までは「無知の無知であるという罪」の中にいたヨブが、今は無知の知に到達した。「無知の無知であることの罪」とは社会的な罪や律法を犯す罪とは異なる実存的なものであるとシスターは教えられた。
ヨブが考えていた人間の「義」を神に当てはめようとすること自体がむなしいことだった。弱い人間が、神に認められようとすることの愚かしさにヨブはやっと気が付いた。
このヨブの物語には重要なキーワードがひとつある。それはサタンの言葉の中にある「利益もないのに神を敬うか」という言葉である。「報いなしに」信じること、つまり、神の主権を認めそれを中心にする信仰か、それとも自分自身の利益のための信仰か、という二者択一がここで問われる。そして自分の信仰評価を神にゆだねることができるかどうかを問われる。

自分中心に考えていた主人公は神を主体に考えるという大逆転をしたことがわかる。ここで、幾つかのエピソードが思い出された。
リジュの聖女テレジアは、自分は幼きイエスの小さな毬だと書いている。イエスが自分と遊んでくれたら嬉しいが、何日も忘れて片隅に放っておかれても一向にかまわないのだ、と。
最近友人に借りて読んだ 帚木蓬生の小説『守教』のなかでは、キリシタンの農民が自分は「神の筆」なのだと繰り返し語ったとある。
フランチェスコの伝記の中でフランチェスコが困難に直面して泣いていたときに神の声を聞く下りがあった。「哀れなるかな にんげんよ、なんとて汝は憂うるや ひとは神のために造られしにあらずや」と。

さて、ヨブ記の中でもう一つ注目すべきことがある。それはヨブ記が書かれたころにあらわれた弁護者、証人、贖う方という考え方だ。ヨブが期待していたものとして、
「あの方と私を調停してくれる者があるなら」九章三十三節
「見よ、今でも天には私の証人がいる」十六章二十節
「私を贖う方は生きておられ」十九章二十五節
このような存在を信じていたがゆえにヨブは絶望の淵に彷徨いつつも救いを待ち望むことができた。この考え方が、やがてキリストの十字架の死による贖いの思想へと導かれてゆくことになる。

神を知る
最後にヨブが以前に倍する財産をゲットしたという最終章は後代の加筆とされている。私はこの部分は本当に付け足しだなあと感じる。フランシスコ会訳の聖書の解説にもあるが、ヨブは神と面と向かってかたらうことが出来たのであり、そこにこそヨブのすべての幸福があったはずだ。それ以上の財産も子孫も健康も必要はなかったはずだ。ヨハネによる福音書の中でも「永遠の命」が何であるかが明記されているではないか。
永遠の命とは唯一のまことの神を知ることである(ヨハネによる福音書十七章三節)と。