紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

石黒さんのお宅
石黒さんのエッセイ集『野川の朝』が四月に発行となった。これまで二年間石黒さんは毎月のエッセイの会に欠かさず参加された。お仲間に入られるとたちまち溶けこんで私はなんだか、ずっと前からのメンバーのような気がした。今度エッセイ集を私の所から出版されることになって、デザイナーと石黒さんのお宅へ装丁に使う絵を借りに行った。石黒さんが沢山の絵を見せて下さった。大きな六〇号ぐらいはありそうな油彩もいくつかあり、その一つ馬籠宿から見た風景を描いたものをカバーに使うことになった。同行したデザイナーの洋子さんも沢山の絵を見せて頂けたことを喜んでいた。洋子さんとも話したが、石黒さんのお宅のロケーションは大変すばらしい。武蔵小金井から野川へ向かう坂を下り、幡随院というお寺の近くである。帰る時「こちらからも行けますよ」と石黒さんが指さした。見るとお宅の裏のほうから細い道が続いていた。、びっくりするほど静かな深い山奥のような空間があり、その、人が一人やっと通れる細い道を辿ってゆくと駅へ繋がる太い坂道に出た。「また来たいな」と思わずにはいられない道なのだった。
ここは石黒さんのクリエイティブな生活の地盤に大変相応しい感じがした。なにしろ石黒さんは様々な趣味をお持ちで、このエッセイ集を読むとそれらが実に生き生きと描かれているのである。
幼名とか、愛称というものは不思議な作用を持っている。エッセイで石黒さんが若い頃に「さっちゃん」と呼ばれていたことを知り、急に石黒さんの若き日が私の中で鮮やかな像を結ぶのを感じた。幼い頃弟さんがご自分を「きよたん」と言っていたことも、それを知って清里さんが私にとって大変身近な存在に感じられた。丁度平成が終わって令和が始まる直前の出版だったので、「さっちゃんの昭和平成」というタイトルを提案させて頂いたのだが、何故か石黒さんはそんな大それたタイトルは……と仰るのだった。

文体と文章の構成
本書を読んで文体と文章の構成ということを考えた。文体は一貫しており、淡々と事実を列挙していく方法で書かれている。女性の文章には珍しいと思う。ただし、それぞれの文章の末尾には短いコメントが付けられていることが多く、文中にコメントが少ないせいか、その最後の述懐が読者の胸にしっかりと落ちる。全体を読了すると、文体が知的で骨太なものを持っていることを強く感じる。「次男倒れる」などはその顕著な例だ。また文章の構成としては概ね時系列にまとめられている。
石黒さんが私達のエッセイの会のお仲間に入られて最初に出された原稿は「緑の日の写生会」だった。一九八九年に執筆された作品だった。写生会への準備から始まり、様々な出来事が時間を追って丁寧に書かれていた。いったいこの作品は写生会の何を伝えたいと思って書いたのだろうと思った。そのことを核にしてぐっとズームインする描き方もありではないかと思ったのだ。だが、写生会の一日が克明に書かれており、人々の足音が途切れなく続く描写などは臨場感があった。先生が駈けずり回ってお世話をなさる様子も良く伝わって来た。時系列にまとめて書くのも、良い面があるなと思ったのである。新宿御苑での一日。それは確かな手触りをもって読者に伝わったと思う。
内容について
第一章
幼年時代、娘時代のことが鮮やかに描かれていた。幼い頃から亡くなるまでの父上の思い出、伊香保での疎開生活、戦後、個人の住宅を借りての礼拝、様々な出来事がモザイクのように嵌めこまれ、淡々と綴ることによって、映像を見るような効果をもたらしていると思う。三箇所ほど、例をあげたい。

父は趣味の油絵の為に、私にモデルになってほしいのだ。その日は私は遊んでいたかったのか、じっと座っている事がいやだったのか、なかなか動こうとしなかった。しばらくしてやはり気になって、二階にある応接間へ行ってみた。応接間の廊下を廻ると八畳間がある。そこで父が長い体を畳に俯せて大きな声で泣いているのを見て私はびっくりした。私はそんな父の姿を初めて見た。どうして良いか分からず私も泣きべそをかいていた。                       (記憶の中の父)

父のお墓は府中のカトリック墓地にある。中央線の国分寺駅からバスに乗り、降りてから明星学園を左に見て畠道を長いこと歩いてようやく着く。伯父伯母いとこ達と一緒の時はまるでピクニックみたいだった。当時は入口の方の半分は芝生でそこでお弁当を拡げた。
夜になると母はよく一人でピアノを弾いていた。それは物悲しい曲で隣室の私は目が覚めてしまい、何故か泣けて仕方がなかった。泣いていたことは母にはだまっていた。
(記憶の中の父)

時々朝、牛乳を買いに私は瓶を持って近くの小川を渡って、少し坂道を登った所にある家まで行く。大きなやかんの中の牛乳を瓶に入れてもらう。五つ下の妹を連れて行った時は川の石を渡って行けない妹を一人その場に残して行った。妹は大きな声で泣きながら待っていた。               (伊香保での日々)

このように、作者のコメントがなく、文章が直截で目に浮かぶように書かれている。「二人の祖母」では、品子おばあ様の立ち位置が鮮明に読者に伝わった。あの偉大な政治家高橋是清の妻として、二・二六事件の時もとりみだすことなくマスコミに対応しておられたという。人格、品格、優しさ、そして、人生に対する当時の一人の女性の態度である。けい子ばばちゃんへの情愛、そして品子おばあ様への温かい敬愛の思いが伝わる。そして、長い歳月を経て作者自身がその年代になられ、「大人を過ぎ高齢になってしまった孫としては、二人の祖母をただ懐かしく思うのみである」と短いがたいそう印象深い述懐で文章は終わる。
第二章
ここでは娘時代のこと、弟清里さんのこと、義母光子さんのこと、御次男の病気のことなど壮年期の事が人々を描くことで語られている。中でも集中の傑作は「父に捧げるうた」であると思う。母上の再婚された相手は亡き父の友人だった。ここには若き日の「さっちゃん」の姿がありありと目に浮かぶように書かれている。この父上は優しく知的で細やかな愛情を子供たちに注いでくれた。万事が円満というよりは宗教上の違いなどを乗り越えてのものだった。そういうこともきちんと書いてあるので、予定調和的な浅い文章ではなく彫の深い世界が描けたのだと思う。特に教育熱心だったことも丁寧に書いてある。山歩きの楽しさを教えてくれたのもこの父上。学校の夏山登山で汗にまみれ帰宅すると、夜中に起き出してすぐに風呂を焚いてくれたという。勤めに出るようになると、職場が近かったこともあって、帰りにはよく珍しい所へ連れて行ってくれた。そのあたりは次のように書かれている。

特別おいしい立ち喰寿司とか、東京一おいしいそば屋とか、銀座一ばんのうなぎ屋とかである。
そのころ私は残業がやたらに多く、帰りがおそかった。特におそい夜、駅で電車を降りると父が、「さっちゃん」と言って立っている。家に電話もない時なので、たびたびこうして父が迎えに来ていたのが不思議でさえある。十五分ほどの夜道を私は勤め先での愚痴を聞いてもらう。私がいやな先輩の話を憤慨してすると、父はいつも「今の経験を何かに書いておいてごらん」などと言って聞かせ、第三者的なものの見方、考え方を教えてくれた。父だって会社勤めで帰ったばかりのところなのに、よくああして娘を迎えにきてくれたと、自分の娘が年頃になってはじめてその親心が分ってきた。
(父に捧げるうた)

私が大好きな箇所である。色々なことを話しながら歩いている二人の姿が目に浮かぶ。
結婚についても一生懸命に考えてくれた。それは、石黒さんの妹の時も同じだったという。
さて、弟清里さんの思い出の記は、大変に印象深く、何度読んでもしみじみと心に染みる。小さい頃の電車ごっこの様子のリアルさは驚く程鮮やかだ。また学童疎開でひとりだけ家族と離れたあと、家に帰った彼はもう自分を「きよたん」とは言わず、「僕」と言うようになっていた。一見些細な出来事のようだが、疎開という辛い時期を超えた弟へのまなざしがとても温かい。ペルーへ転勤になったあと、帰国して石黒さんの家族と一緒にスキーに行った思い出も嬉しい気持で読んだ。やがて肺癌になり、骨癌を併発してしまった。

その後、江ノ電の側のテレジア病院に入院し痛みを取る治療を受ける。見舞に行くと体は動けないので鏡を使って写る海を見ているのだと言っていた。病室には聖人の御絵が幾枚か張り付けてあった。五五歳で亡くなった。(弟清里を思う)

鏡を使って海を見ていた病篤き日々の清里さん。短い記述に石黒さんの涙が感じられ、切ない。本書をまとめたとき、弟のことも書いておきたかったとおっしゃったので、出版の時期は遅れても書く方が良いと思い、このエッセイを書いて頂いたのだった。そして、書いて頂けて本当にありがたかったと思う。
この第二章には「軽井沢の母」という短いものが一篇入っている。まだお元気だったころの母上が軽井沢の貸別荘を借りて子供たちを招いた。元気な、元気すぎる運転の様子、疲れをしらぬげな快活なお母様のすがたが活写されている。若き日、夫を亡くして夜ごとピアノを弾いていたお母様、洋裁で身をたてようと頑張っておられた時期もあった。また伊香保ではキリスト教徒であるがゆえに「ヤソ、ヤソ」と言われながらも賛美歌を歌い礼拝を欠かさなかった。軽井沢に滞在中も教会へはきちんと通っておられたとか。
皆が帰った後、次のような事件がおきた。

この別荘の台所やトイレに一匹二匹と蜂が飛びかっているのが気になっていたのだが私達が帰ったあと、母は何を思ったかこの蜂と戦ってしまったのである。外の物置の蜂の巣をつついて何ヶ所かさ刺され、その痛さは大変なものだったらしい。医者にまでかかり、町の係の人達で蜂の巣はとり除いてもらったという。母も大事にはならなかったが、少々弱気になった彼女を、弟が迎えに行き、後にも先にも、ただ一回の母の軽井沢貸し別荘暮しも終ったのである。

ユーモアのセンスが生きていて、これは確かに名文であると思う。

義母の光子さんのことについては非常に丁寧に日記や記録をもとに綴られている。家族の雰囲気が一番よく分かったのがこのエッセイだった。皆が本当に熱心に看護していて、誰か彼かが側に居て面倒を見ていた。石黒さんの優しい感性がお子様たちをこのように育てられたのだと思う。また昭和の時代は、核家族となる前はみな大家族で暮らしており、お互いにいたわりあい、助け合っていたのだなあと思う。最後におかれた詩も素晴らしい。

「次男倒れる」は、スリリングな展開で、いったいどうなってしまうのだろうと、息を呑み、頁をめくるのももどかしく読んだ。この方は今石黒さんの早朝散歩の同行者であり、
「さて、次はどこへいきましょうか」と問いかけてくれる優しい人物である。このエッセイは石黒さんの文体が最も端的に表われており、倒れてこん睡状態の御次男のことを感情を交えずにしっかりと書いている。私だったら、多分、震えてしまったり涙を流したり、食事も咽を通らなかったりしたと思う。母はつよしと言えども、石黒さんも相当な衝撃を受けられたと思う。回復してゆくプロセスもよく書けている。インスリンの器械がピーピー鳴ると御次男が胸に手を当てて、「死んだふり」をしたりと、御茶目なところも伝わる。ひと月以上たって、御次男が「目が少々落ち窪んでいるが明るい表情で笑いもするので」「私も心からほっとする」とここで初めて述懐がでてくるのだが、これが文章全体の中で極めて強烈なインパクトを与えている。どれ程の心痛であったかが、ここに至って鮮やかに読者の胸に伝わるからだ。

第三章
ここにはドイツやアメリカへの演奏旅行のことや、ヨルダンへの旅、懐かしい友石川さんとの別れのことなどが集められている。ドイツへの旅の記録は読み終えてその寒さがびんびんと肌に伝わるようだった。大変な演奏旅行だったのだと思う。
螺旋階段を登っていくと、ドイツ語のコーラスが素晴らしく美しく響いている。ドイツ人のコーラスなのかなと思って近付いてみると、我々の仲間の歌だった。                     (ドイツ演奏旅行)

こんな記述が印象に残った。この旅行記も、時系列に詳細に書かれている。やや内容が並列的になってしまったのが惜しい気がした。印象的な場面をもっとズームインして詳しく書いてもらうのも一考だと思う。

街中の大きなマリアン教会へ入る。オリーブの木で造られた大小の像が売られていたので一番小さい馬小屋を孫の為に買う。旅もあと残り少なくなり、明日のコンサートに向けて、少々緊張気味のバスの中、バッハの曲が流れる。
私の一生は常に日常茶飯事で過ぎているが今この瞬間は安らかな充足感で満たされている。窓の外は林と薄く積もった雪が続いている。(同)

この部分は控えめで短いけれど、旅の途上で人生を俯瞰する瞬間が与えられたのだと思い、心が引き締まるような気がした。

ニューヨークのカーネギーホールでの演奏会も丁寧に詳細に描かれていた。ほんとうに自分も一緒に旅をしているような気持になる。
ヨルダンの旅の記録は貴重なものだ。ご高齢な石黒さんがテント泊まったり、そのテントで夜中に目をさまし、電気がついているのかと思ったら月だった。そんな記述が具体的で魅力的だ。

最後に親友の石川さんのエッセイについて触れておきたい。学校時代からの友なのだ。いっしょに山登りを楽しんだり、編物教室を石黒さんのお宅でやったり、長いお付き合いだったが、あっけなく病没された。

どこへ行ってしまったの、私の友。長い長い間の楽しい友。月二回、私は部屋をととのえて編物の仲間を迎える、十分前位に彼女は庭先のガラス戸を開けて茶の間に入って来る。私達は二週間ぶりのお喋りを楽しむ。そのうち皆がそろう。多い時は八人位、最近は五人位、十二時を過ぎるとお茶になる。

石黒さんの悲しみがストレートに伝わった。私も石川さんの死を惜しまずにはいられなかった。人生のなかで与えられた素晴らしい友人。その喪失はとてつもなく悲しいが、石川さんとの歳月はけして無にはならないことをせめてもの慰めと思う。

一冊の自分史を編むことは、色々な意味で良い経験だと思う。絶対に書けないことだって、あるかもしれない。だが、書ける範囲で記録を残せば、いつの日か、家族がひもといて、「そうだったんだね」と共感してくれることだろう。平成もおわって、令和となった今、私達の自分史には昭和や平成の時代の匂いがきっとすると思う。2019・6