紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

ちょうど七月十二日に今やっている聖書講読の講座が一区切りついた。区切りがついたというのはこの日に旧約聖書を読了したということである。約二年かかったが全巻を読み終えた感動は参加者皆の胸に溢れているように思われた。私もこの二年間の歩みを思い返しやっぱりエマオへの道だったなあという思いを新たにした。エマオへの旅の話はルカ伝に詳しい。その物語をここでかいつまんでふり返りたい。
「同じこの日(十字架上で死んだイエスが、復活した姿をマリア等に現した日)のこと、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れた、エマオという村に向って歩いて行きながら、これらすべての出来事について語り合っていた。」二人が話し、論じ合っていると、一人の旅人(イエス)が加わり、論じ合っていることについて尋ねた。二人は、都で話題になっているイエスの死刑の事を知らないことを不思議に思いながら、イエスの死について語り、「彼こそは自分たちを解放してくれると思っていたのに」と暗い顔つきで言う。旅人は歩きながら「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたってご自分について書かれていることを、二人に説明された」エマオに着くと、二人は彼を引き留め、一緒に泊ってゆくように勧める。そこで三人で宿へ行って夕餉の卓につく。そしてこの旅人がパンを裂いた。その瞬間に弟子たちは旅人がイエスだったことを悟る。だがイエスの姿はもうみえなくなった。二人は、「あの方が、道々私たちに話しかけ、聖書を解き明かされたとき、私たちの心はうちで燃えていたではないか」と語り合う。
エマオへの道。その旅程を思う時、自分がイエスに聖書の話を聞かせてもらう弟子になったような気持ちになる。なんと幸せな道だろう。エマオが実際はどこにあったのか、今は分からないそうだ。私は勝手に想像し、美しいレバノン杉のしげる道を目の前に描く。イエスが一緒に歩いているのだから、どんな坂道だろうと埃だらけになろうと苦にはならない。
聖書百週間の講座は幸せなエマオへの道そのものだといつも思う。参加している人々は忙しい日常の時間をやりくりして、よく二年間頑張ってこられたと思う。誰もがこの時間を恵みと感じ、継続を祈り続け、一歩一歩イエスと一緒に歩いて来たのだなあと思わずにはいられないのだ。
そうさせるだけの秘密は聖書そのものにあることは言うまでもない。それを要約して言うことは不可能だが、聖書には人間の物語の原型がいくつかあると思う。特に兄弟にまつわる物語―カインとアベル、ヤコブとエサウ、ヨセフと兄達。カインとアベルはカインの嫉妬と憎しみによってアベル殺しという最悪の結末に至る。しかしヤコブとエサウやヨセフの物語はいったんは憎み合っても最後は和解に至っている。創世記に出てくるこれらの兄弟たちの物語は、ほんとうに忘れ難く、印象深いものだ。またサムエル記に出て来るダビデとヨナタンの友愛の物語も実に印象深い。ヨナタンはダビデを憎むサウル王の息子だが命がけでダビデをかくまい、また工夫を凝らしてはダビデを助ける。若きダビデとその唯一無二の親友ヨナタン。ここにも世界が持っている友情の物語の、原型があると思うのだ。
もし無人島に流されるとき一冊だけ持って行くとしたら、あなたは何を持って行きますかという問いに「聖書です」と言う人がいる。私は、「ずいぶん物好きな人もいるものだ」と思っていた。だが今は私も迷うことなく「聖書です」と言うだろう。聖書に没頭できるのなら無人島に流されてみたいと思うぐらいに。この十二年間というものほとんどずっとこの講座に関わって来た。そして気が付いたのだが、聖書を読み続けることはいつも新たな発見に導かれるということだ。
旧約聖書を読了するのは今回で四回目になるが、今回も沢山の発見があった。特に今回は預言者たちの苦難や勇気、神の励ましにこれまで以上に強いインパクトを感じた。イザヤやエレミヤは貴族階級の出で、育ちのよい人々だったが、裸で歩きき回ることやくびきを首に着けて歩き回るように神に命じられる。それはもう、ほとんど狂気の沙汰である。しかも何回も命を狙われ、結局は殺される運命が待っていた。そんな彼らの言葉は時代背景を踏まえて読むと強烈な響きを持って迫って来る。エジプトやバビロニアなどの強国から絶えず狙われていたイスラエル。どうしたら生き延びることができるのかを彼らは必死で伝えようとしていた。右往左往する小心な王たちを叱咤し、声を嗄らして激励した。だがイスラエルは結局は神(預言)に逆らい、運命に翻弄され、歴史的な大団円であるバビロン捕囚によって国そのものがついに滅んでしまった。それでもユダヤの民は信仰共同体というコミュニティを形成し、お互いの絆と信仰によって存続しつづけた。それができたのも、偉大な預言者たちのおかげと言って良いだろう。その預言者たちに対して神は「私は決して見捨てない」と繰り返し言ったと、聖書は語る。私もこの言葉が強く胸に染みることが人生の節々に何度かあった。
ルカによる福音書のエマオの物語のなかでは、イエスがご自身と旧約聖書の関連について語ったとある。バビロン捕囚のあたりからユダヤの民の間にメシア(救い主)の思想が現れた。そのメシアとは誰なのか。預言者たちはヒゼキア王(第一イザヤ)だとか、バビロンを滅ぼしたペルシャのキュロス王(第二イザヤ)だとか、祭司ゼルバベル(ゼカリア書)、だとかを念頭に語って来たが、歴史の歩みの中でそれらは変遷をとげてゆく。そしてついに新約の世界に到達してイエスが現れた。私たちの「心が燃える」この時へと、旧約の世界はその全プロセスを物語っているのだ。

聖書百週間の、旧約聖書読了後の課題の一つに聖書について書き留めよということがあったので、思いつくままに書いてみた。
2019年7月