紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

前回エッセイの会で寒河江氏が気ということについて書いておられた。そのことに関しては即座に感想は言えなかったが心に残ったので、この間ずっと考えていた。寒河江氏はエッセイで韓流ドラマについて語ったのち、韓国での医療について言及し、そこには「気」の流れということが重要な要素としてあり身体には経絡という気の流れがあること、それが滞ることによって肩こりなどの症状が現れると書いていた。その、気とは何か。寒河江氏は、以前セザンヌの絵に山水画に通じるものを感じ、山水画について調べてみたという。
そして、次のような興味深い文章を引用している。
「山水画、文字通り山や河や森等自然の事物を描きながらそれら個々の事物には西洋絵画的なリアルさはない。それでいて我々をその風景(山水の世界)に引き込む力を持っている。それは、中国絵画はその起源から一貫して「気」を表現することを目的にしてきたからだという。……」 (宇佐美文理著「中国絵画入門」岩波新書)」
驚いた事には、彫刻家である寒河江氏は、ご自身が彫刻において「気」を表現することをテーマとしておられるというのである。そういえば以前寒河江氏の講演会に行ったとき、自身の油絵を見せながら、彼は「ここには風景を通して空間が現れている」と言われたと、語った。(そう言ったのは亡夫市原だったそうで、びっくりしたが)。実際、氏は風景を描くよりもむしろ空間を、奥行きを、距離を描こうとしていたのだと思う。優れた風景画は、確かに空間が現れている。私はよく「空気感」という言葉を使うが空間そのものを現出させるのが画家の腕前と言えるのではないか。今テーマにとりあげている「気」も突き詰めればそのようなものかもしれないと思う。寒河江氏はさらに、事典をひいて気を調べている。孫引きで恐縮だが、次のように書いてあったそうだ。
「‥…元来中国人は、人の気息、風(大気)や霧、雲の類、湯気などを気として認識した。そして㊀気は空気状のもので、天地の間に編満して流動変化するとともに、人の身体の中にも満ちていると考えた。㊁気は万物を形成し、かつ気が生命力、活動力の根源であって、人の身体的、精神的諸機能もすべて気から生ずると考えた。‥…(小学館 日本百科全書六 一九八五年)
寒河江氏は、気はエネルギーのようなものではないかと考えた。彼は、次のように考察した。
……気は空間に満ち満ちており、万物を形成しているというからには、何かエネルギーの様なものなのか。そして身体のうちにも漲り、生命、活動をつかさどっているということは。それぞれの身体は気を通して万物に繋がり、万物はそれぞれの固体に向かって凝縮してくるということになる。
寒河江氏は更に、物体を電子、陽子レヴェルでとらえればあらゆるものは「スカスカ」であり、逆にスカスカにみえる大気のなかはさまざまな濃度差のある物質が満ちている。気は、それらをへめぐり、要素を繋ぎ、一個の物へと形作る作用をしているのではないか、と言う。そして、気が分かったら、すべてが分かるのでは、と書いていた。
そして、これまでキリスト教の三位一体の神とイエスはわかるが聖霊はどうもよくわからなかった、しかし、もしかすると聖霊とは気のことではないか、というのである。

話はすこし横道にそれるのだが、このところ私は井上洋治神父の『余白の旅』(日本キリスト教団出版局)という本を読んでいる。井上洋治神父は長い間ヨーロッパの修道院で修業をし、神学を追及され、日本に戻って神父になったのだが、どうも自分の中にヨーロッパの神学との齟齬を感じてならないという。ミケランジェロの彫刻にしてもシスティナの礼拝堂にしても、確かに雄大さと迫力はあるが、ぎっちりつまっていて窒息しそうな息苦しさを感じた。「余白」の無さを感じてしまうのだと言う。日本に戻って、龍安寺へ赴き、石庭にむきあったとき、心からホッとした。そして、石と石の間にある「余白」、そこを気が流れていることこそが日本的なものであると感じると言うのである。そのことを彼は次のように書いていた。
―山水画や墨絵の余白の部分と言うのは、確かにそこには何も描かれてはいない。従って何も描かれていないという意味では無である。しかし、余白の部分を全部切り取ってしまって金縁の額などに入れてしまえば、描かれている部分も完全にその絵画としての生命を失ってしまう。何も描かれていない余白の部分が、まさに描かれている部分を、おのおのその場に生命あらしめているのであり、その場をえさしめているのである。十五個の石を白砂の庭から取り出して並べてみても、そこには何の力もなければ生命もない。木も花も何一つ植えられていない白砂の部分こそが、まさに余白の役目をはたしているのであって、この何も置かれていない白砂こそが十五個の石を生かし、くすんだ油土塀を生かし、更にはその塀の外の緑をもすべてを生かしている‥‥…(前掲書)
気に相当するギリシャ語はプネブマ(プネウマは英語読み)である。その意味は風、息、霊である。新約聖書で聖霊を表わすときは、プネブマの前に聖(アギヨ)という語を付けることが多いが、プネブマだけでも用いることがある。井上神父は、持論を展開するにあたり、唐木順三の『詩とデカダンス』を引用している。それによると風雅とか、風情とか、日本の芸術の境には風の字が大変多く、芭蕉は「風雲の情」「片雲の風」などと言ったこと、聖書にも「風(プネウマ)は己が好むところに吹く、すべて霊(プネウマ)によりて生きる者もかくの如し」とあり、井上神父が自身のもっていた感じ方と一致していたようである。井上神父は長々と唐木順三を引用した後で次のように書いていた。
―イエスをイエスたらしめ、パウロをパウロたらしめ、今の私を私たらしめている「何か」は、まさに芭蕉を芭蕉たらしめ、「野の百合、空の鳥」をそれぞれにあらしめている「聖なる風(プネウマ)に他ならないはずなのである。この「聖なる風」を「天然の風」ということばで表現しても良いように私には思われた。新約聖書にも、神を天とよんでいる個所はかなりあるからである。/見るものも見られるものも、およそ生きとし生けるものの生命の根底には、この同じ天然の風が吹き抜けているのである。(前掲書)
そして井上神父はついに次のような確信にいたるのである。すなわち、人間理性にはとらええない「天然の風」を神の愛、神の息吹き(プネウマ)として示したのがイエスの教えではないか、と。
またイエスの復活については次のように語っている。イエスの十字架上の死や行いは歴史的な方法で確認できる、だが復活は一般的な認識の分野ではない。信じる者にとってはそれは「真実」であり、少なくとも歴史的な出来事ではないというレオン・デュフールの言葉を引用した後で、次のように言う。
ナザレの史的イエスが復活のキリストとなったということは、イエスが時間的、空間的制約、更に死の制約に打ち勝って、いわば神のプネウマと一体化したということ、哲学的な用語を使えば、存在者の次元から存在の次元そのもののひろがりを持ったということに他ならないのではないか。さらにいえば、ものの次元から場の次元へと拡散したということではないか。(前掲書)

この本を読みながら、(僭越を顧みずに言えば)寒河江氏の論はあと一歩で日本のキリスト教神学の巨人井上洋治神父に肉薄するような気がしたのである。神父はヨーロッパのトミズム(トマス・アキナス神学)をカトリックの世界の教義としてとことん履修し、またフランスの大学で哲学も学んだ。しかし彼は自身の内なる声に耳を傾け、和辻哲郎の「風土」にあるような東洋的な世界をしっかりと見据えた。ヨーロッパのキリスト教の世界に今一つ齟齬を感じて苦しみ続けた三十年間の思索ののちに、この「余白の旅」は書かれたのである。
さて今日は久しぶりに涼しい風が吹いている。この辺で戸外へ散歩に行くことにしよう。私も、気を感じることができるだろうか。こんな詩篇があったのを思い出した。

神よ わたしのうちに清い心を造り
あなたのいぶきでわたしを強め、新たにしてください。
わたしをあなたのもとから退けず、
聖なるいぶきをわたしから取り去らないでください (詩篇51篇)

2019・9