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キリストは、メシアと呼ばれている。元の意味は「油を注がれた者」だが、今はそれが「救い主」という意味を帯びている。キリストが登場するずっと前からメシア待望の機運はきざしていた。旧約聖書の歴史のいつ頃からメシア思想は現れたのか、メシアとは誰なのか。ここでは歴代の預言者の言葉を辿り、考えてみたい。

旧約聖書に、ソロモン王の死後の歴史が、列王記上下に記されている。この時代に活躍した預言者たちの預言書に於いては、イスラエル国家の存亡の危機を迎えるに従い、ある時期から次第に「メシア」すなわち救い主が切望され、その像が語られるようになる。
以前に私は「バビロン捕囚と預言者」を書き、その中では、イザヤ(第一イザヤ)の言うメシアとはヒゼキア王であったと書いた。
「イザヤははじめの頃から〈残りのもの〉という思想を展開する。残りのものとはうち滅ぼされてもなお残る少数者、新しい神の民についての預言である。〈インマヌエル〉という名の男の子が生まれること。その子が救いの徴である。インマヌエルとは、信じるものと共に神はいますという意味である。この預言はアハズ王に対してなされており、インマヌエルとは、アハズ王の子ヒゼキヤ王をさして言っているようである。後の世の人々はこの言葉をメシアとしてのイエス・キリストの出現に見立てた。」
この拙文に対して、一人の友人から、「メシア」は聖書に登場したそもそもからイエス・キリストを指していたのではないか、との疑問が寄せられた。友人の論拠はこうだ。―たとえば創世記三章十五節の「わたしはお前(サタン)と女との間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼はお前の頭を踏みつけ、お前は彼のかかとにかみつく。」とある。原福音と呼ばれるものである。この「彼」はメシアをさしていると言われている―。
創世記に書かれているからと言って、「そもそも」からとは言えないと私は思う。古代の伝承に基づいているが、創世記がまとめられたのはバビロン捕囚の出来事の後だからだ。バビロニアを滅ぼしたキュロス王の勅令によって、人々はイスラエルへ戻り、荒れ果てたイスラエルに神殿を再建した。この頃に活躍したエズラという預言者が創世記をはじめとするモーセ五書をまとめたということだ。キュロス王の勅令がBC五三八年なので、その頃である。

幼帝
それでは一体いつ頃からメシア思想は現れたのだろう。さてここで一つ書いておきたいことがある。それは、列王記の歴史の中に幼帝が現れていることだ。普通王たちは母親によって養育される。母親が異教徒だと、異教の神を崇拝するようになる。だから信仰者の王の息子がしばしばとんでもない異教の偶像崇拝に走ってしまう。
だが、幼くして王になったある者は、数奇な運命によって祭司が保護者になった。それゆえ、イスラエルの唯一神を信じ、理想的な信仰と政治を行った。その王の名前はヨアシュである。父親アハズヤ王が北イスラエルのイエフによって謀殺された。アハズヤ王の母親のアタルヤは王の血筋の者たちを皆殺しにし、自分が王位についた。BC八四二年のことである。だが、ひとりだけ叔母に匿われて生き残ったのが赤ん坊だったヨアシュだ。
ヨアシュは六年間神殿にかくまわれて生きていた。七年目に祭司ヨヤダによって王に任命され、アタルヤは捕らえられて殺された。ヨアシュは祭司ヨヤダの薫陶を受けて育ち、生涯を通じて主が正しいと思われることを行った。いわば理想の王だったのだ。この幼帝の話を念頭におき、最初にメシア思想が現れたとおぼしきイザヤ書を見て行きたい。

来たるべき平和の君
「見よ、おとめが身籠って男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」 (イザヤ書七章十四節)
「まことに、ひとりのみどりごが/わたしたちのために生れた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威がその肩にありその名は『驚くべき助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。(イザヤ書九章五節)
アハズ王の子ヒゼキア王(BC七二八年)の即位のお祝いの歌であると考えられている。
さて、イザヤが救い主インマヌエルをヒゼキア王であると考えた理由は即位の年齢にあるようだ。いったいヒゼキア王の即位の年は何年だったのか。それには二つの説があるようだ。まず前提となるのが父アハズ王の即位で、BC七三四年である。
①列王記下十六章二節によればアハズ王の在位は十六年間。歴代誌下二十八章一節にもそう書いある。アハズは即位がBC七三四年なので、十六年後はBC七一八年。つまりこの年にヒゼキア王が即位したことになる。
②列王記下十八章一節によれば、ヒゼキア王は北イスラエルの王ホシェアの第三年に即位したとある。ホシェア王はBC七三一年に即位したので、ヒゼキアの即位は①とは異なり、BC七二八年ということになる。列王記の同じ箇所ではその時ヒゼキア王は二十五歳だったとある。
③列王記十八章九節にはアッシリア王シャルマナセル(在位七二六-七二二)が攻めてきたのは「ヒゼキア王在位四年目、イスラエル王ホシェア第七年」であったと書かれている。。
ホシェアの即位が七三一年でそれから七年後だから、七二四年。そのときがヒゼキア王の即位後四年目だったわけだからヒゼキア王の即位はBC七二八年となる。
したがって、ヒゼキア王の即位は②のBC七二八年が正しいのではないかと推測される。
(北イスラエルの記事が正しければであるが)そうなるとアハズ王の在位は七三四年から七二八年までの六年間となる。つまり、アハズ王の在位は①列王記下十六章二節では十六年となっているが、正しくは六年と考えられる。アハズ王は同じ箇所によれは二十歳で即位し、二十六歳で死んだことになる。そんなに若くして亡くなったとすると、ヒゼキアはまだ幼かったはずだ。つまり、ヒゼキア王の即位は列王記十八章二にある二十五歳ではなく、むしろ五歳であったと考えられるのだ。
それゆえイザヤはおよそ百年前の理想の王ヨアシュも幼帝であったことをかんがみ、幼いヒゼキアこそ神が与えたもうたメシアであるとして、その活動に期待し、このようなお祝のうたを残したのではないかと考えられる。

キュロス王
イザヤ四十四章二十八節、四十五章一節では具体的にキュロス王の名前が救いをもたらすものとして出ている。第二イザヤと呼ばれる部分(イザヤ四十章から五十五章)は第一イザヤから二百年近く経ってからのもの。この部分は捕囚の地で書かれたとされている。。預言者は政治的リーダーを任命する伝統があり、第二イザヤも自分がダビデ王朝を復興するメシアを任命すると思っていた。それは同時に国としてのイスラエルの復興を意味していた。つまり、第二イザヤは政治的現世的なメシアを期待したと言える。第二イザヤはキュロスに民の解放をもたらすのみならず霊的メシアでもあることを期待した。だがキュロスは民を政治的には解放したものの、バビロンの神マルドゥクを礼拝する異教徒だった。

苦しむ主の僕
そこで第二イザヤは挫折し沈黙する。私に聖書を教えてくれた師は次のように語っていた。「第二イザヤはそのあと救いを霊的次元に求めることを啓示された。救いは政治的な力によってもたらされるものではなく、無力ですべての人に仕える代理的贖罪的な死によってもたらされるという信仰の目がひらかれた。」
有名なイザヤ書五三章三節以下「彼はさげすまれ、人々から見放され、苦しみの人で、病を知っていた。‥‥まことに彼は私たちの病を担い、私たちの苦しみを背負った。私達は彼が神によって打たれ、叩かれ、卑しめられていると考えた。彼は、私たちの背きの故に打ち砕かれた。彼の上に下された懲らしめが、私たちに平和をもたらし、彼の傷によって私たちは癒された」この部分はイザヤ集団の弟子によって、第二イザヤを指して書かれているとも言われる。この部分はイエスの苦しみと死と高挙を表現するのに最もよく用いられている。高校時代、何も知らずに初めてこの部分を読んだとき、どうしてここに(こんなに昔に)キリストの事が書いてあるのだろうと、ひどく驚き、聖書の世界は確かに神の領域だと思ったことを思い出す。

祭司ゼルバベル
ゼカリア書にメシア的な希望を持って示された祭司ゼルバベルの死が暗示される。
ゼカリアはBC五二〇年から五一八年まで活動した。第二イザヤがBC五八七年から五三六年なので、時代的に大変近いところで活躍した人だ。四章では「二本のオリーブの木」として、救い主は祭司ゼルバベルとヨシュアの二人となっていた。特に祭司ゼルバベルは「ゼルバベルの手がこの神殿の基を据え、彼の手がそれを完成する」とされている。だが、六章ではそれが大祭司ヨシュア一人に変ってしまう。おそらくここでゼルバベルは暗殺されてしまったものと推測される。
キュロス王の死後後継者カンビセスは事故死。ペルシャに王位継承争いがおきる。このペルシャの弱体化に、ユダヤはダビデ王朝の後継者をたてて、ユダヤの国家再建をもくろんだ。しかし、ペルシャに強権をほこるダレイオス一世があらわれ、国家再建の希望は挫折。ゼカリア書にあるゼルバベルはダビデの子孫としてたてられようとしていたが、警戒したペルシャによって暗殺されたものと思われる。

イエスの弟子たち
イエスの弟子たちはローマの支配下にある自分たちを現世的に救ってくれる存在としてイエスを考えていたのではないか。
「イスラエルを解放して下さるのはこの方だと私たちは望みをかけていました。」(ルカによる福音諸二十四章二十一節)
弟子たちの中で誰が一番かを議論していたのはそのためだろう。(ルカ九章四十六節)(ルカ二十二章二十四節)多分、イエスが王になったら我こそは上位の地位を得たいと考えていたからだ。弟子(ゼベダイの子等)の母親が「あなたの国で」(マタイ二十章二十節)わが子を引き立ててくれと頼んだりしているのも同じだろう。
イエスは彼らの誤解をどんな思いで聞いたことだろう。「おのおの自分たちの十字架を背負ってついてきなさい」と言いながら、イエスは彼らがその意味をいつになったら悟ることかと思わなかっただろうか。ゲッセマネの園でイエスを分かっていた弟子はひとりもいなかった。イエスが血の汗を流して苦しみ祈っていた時彼らは眠りこけていた。そしてはりつけになった十字架の上には毒々しいあざけりと皮肉をこめて「ユダヤ人の王」と書かれていた。

真のメシア
このようにメシア像の変遷を聖書に見てみると、最初は預言者も弟子たちもこの世的な政治的な救済者としてのメシアを期待していたが、真の霊的な意味でのメシアに目覚めてゆく長いプロセスがあったのではないか。
今も私達はしばしば現世的な「肉の悩み」をかかえ、「霊の悩み」の上位にそれを置きがちだ。だが私はそれが必ずしも間違っているとは思えない。なぜなら、哀しいかなそれが人間というものだからだ。そして、誰よりもそれを知っているのが「主なる神」ではないだろうか。

二〇一九年一一月