紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

雑草の名前
この夏、東小金井の駅周辺は区画整理のためにあちらこちらに空き地が出来、そこには人の背丈よりも高く雑草が生い茂っている。去年私は『散歩で見かける草花・雑草図鑑』(創英社・三省堂書店刊)を購入した。草の名前が分からないので知りたくなったのだ。特に生い茂っていてすさまじいのは竹似草という。もう一つ、去年調べて覚えたのに忘れてしまった草が最近とみに元気に繁っている。見るたびに、何という草だったかと思うのだが、図鑑もわが家の乱雑な本の堆積に埋もれてしまった。毎日見かける。「あなたは何だったかしら」と心の中で問いかける。そして、とうとう或る日、その草は日本の草ではなく、どこかからやって来た外来種だったことを思い出したのだ。少なくとも、その名前には外来種であることが分かる部分があったはずだった。さて、外来といってもそれはどこだったか。確か、西洋だったような気がした。それからさらに数日後、遂に私はその草の名前のアタマには、「洋種」という言葉がついていたことに思い至った。私はさっそくスマホで検索し、その名前に辿り着くことができた。それは、「洋種ヤマゴボウ」だった。洋種といってもその原産地はカナダ。六月から十月にかけて生息し、高さは一、八メートルにもなる。花は穂の形に横や下向きに垂れ、実は黒紫色でつぶれて出た汁に染まるとなかなか落ちない。明治時代に日本にきて各地ではびこっている。
一つ一つの草に名前がある。可哀想な名前もある。吾亦紅。「あたしだって紅いのよ」といういじらしい名前だが、じっさいは黒っぽい。そうかと思うと「忘れな草」などという優し気な名前の花もある。その青い花の可愛らしさとあいまって忘れ難い。踊り子草。これまた愛くるしい名前だ。少し寒い早春、路地にこの草が生えてくると、春になったと嬉しくなる。

ヘブライ語について
コロナ禍は一向に収まる気配さえもないので、外出の機会もめっきり減り、暇にあかせてとうとう以前から誘われていたヘブライ語を、遅まきながら勉強することにした。幸か不幸かコロナの影響で、先生がオンラインで授業をしておられる。また友人が四十回分ぐらいの録音のUSBを郵送してくれた。テキストや沢山の印刷物も送ってくれた。そこで私は思い切ってヘブライ語の旧約聖書を購入した。(もちろんチンプンカンプンだ。)
やり始めるとすぐに、エロヒームという言葉が出て来た。創世記の一章の一節である。先生によれば、ある種のヘブライ語は単数でも複数形を用いる。エロヒームもその一つで、意味は「神」。ただしそこに用いられる動詞は三人称単数形である。何度か書いた事があるが、私が高校生の時、キリスト教から一時期離れた理由の一つが、一神教である筈なのに、創世記の神が「われわれ」と複数形で出てくることだった。勿論、一章一節には「神」と翻訳されているが、読んでいくうちに複数形で登場したりするのである。例えば、一章二十六節「われわれにかたどり、われわれに似せて人間をつくろう」そのことが不思議で、人々に尋ねたが誰も答えてはくれなかったのだ。
これは神という言葉を強調し、超越性を表わすために複数形になっているのだそうだ。「聖書百週間」という聖書の学びの場で初めて私はそれを知ったが、創世記の冒頭から神という語そのものが「神々」となっていたとは全く驚きだった。また創世記で用いられる「創造する」という言葉も、神という主語に対してだけ用いられる言葉だそうだ。普通の人々の創造とはちがう単語なのだろう。
「ルアッハ」という言葉は霊と訳されていることが多いが、もともとは「風」「息」で、それも非常に激しく動き回るニュアンスを持っていると先生はおっしゃる。日本人が守護霊とか背後霊とかいうときの「霊」はただ在るというニュアンスだが、ヘブライ語の場合はもっとその「働き」に関心がある。日本語では、「霊」には「風」「息」の意味はない。ヘブライ語では、用例の三分の一は風、息の意味である。たとえばノアの物語で、洪水の水を引かせる力として用いられている。ちなみにこの言葉の最後の「ハ」は、喉音と言い、日本語にはない発音である。だから、発音によっては「ク」とも聞こえるので、時々「ルアク」という表記が見られるのだ。
また、魂という言葉は「ネフェシュ」だが、元の意味は「喉」。ヨーロッパの普通の感覚だと魂は「心臓」だろう。英語でもソウルの他に「ハート」という単語が魂としても使われているしギリシャ語でもカルディは心臓であり心でもある。どうして、魂が「喉」なのかなあ。ふと家の中でそう呟いたら、息子が言った。それは「言葉」と関係があるのではないかな。いや、それよりも、「歌」と「魂」が関係しているからじゃないか。なるほど 「歌」なのか! 実際、良い歌を聴いているときほど「魂」を感じることはないではないか。なんだかヘブライ語が好きになりそうだ。
また、創世記の冒頭でヘブライ語の時制についても教えられた。ヘブライ語(古代)の動詞には完了形と未完了形しかなく、しかも、しばしば未完了形が完了を表わすことがある。数行前に現れた完了形は同じパラグラフのなかに出て来る動詞に影響を及ぼす。つまり、数行後に出て来る未完了形が完了を示してしまう。(もっとも現代ヘブライ語は「現在」の概念をもっているという。)さらに、完了形についてだが、手元のテキストの「完了形」の所を開いてみよう。
① 既に完了した事柄や過去の叙述
② 未来の出来事(話者の意識の中では既に完了したものとして、また預言の成就や確実な約束など、間違いなく実現することとして活写する。
③ 「た」よりも「る」で訳す方が良い場合がある。例 愛した→愛している
神の言葉を伝達する慣用表現として→主はこのように言われる、言っておられる。
④ 主に詩文、韻文で、超時間的な事柄の叙述。→正しい人には闇の中でも光が昇る。
長くなるので省くが、実は未完了形についても様々な用例が列挙されている。
このように時制の問題は今の私たちには分かりにくい面を持っている。たとえば、、前に書いたが、天の国は「すでに来ている」のか、「これから来る」のか。ヘブライ語の時制を学んだことがないと新約聖書のこの辺りが分かりにくい。しかも新約聖書は今、ギリシャ語のものしか残されていないのだからなおさら難しい。安易に結論を出すことなく聖書の一つ一つのセンテンスに当たってもっと深く考えてみたい問題だ。

アラム語とイエスの言葉
さらに私はヨアヒム・エレミアス(一九〇〇年~一九七九年)の『新約聖書の中心的使信』(新教出版社)という本を読み、ここでも「言葉」の問題に非常に啓発された。イエスが日常使っていた言葉は多分、アラム語であり、この言葉はこの当時、広い地域で交易や文化、生活において用いられていたようである。新約聖書の最古の本文の研究はドイツ、イギリス、アメリカで非常に精力的になされてきたという。一九五七年には調べたギリシャ語の写本だけでも四六八〇に及んだという。写本、つまり手書きのコピーのことだ。書き写すプロセスにおいて書き写した人の何らかの痕跡があることだろう。それを詳細に分析し、ギリシャ語からガリラヤ・アラム語(アラム語の方言)へと遡る作業がなされた。ガリラヤ・アラム語がイエスの母国語だということがはっきりわかったのも、わずか六十年ほど前のことだという。(この本が書かれた一九五九年の時点でなので、約百二〇年たっている)
これらの研究によって、主の祈りの内容や、山上の垂訓のみ言葉も明らかになって来たという。私は主の祈りの中の「私たちの罪をお許しください」の「罪」が実は「私たちの負債(借金)」であったことを知った。また山上の垂訓の中の、「心の貧しい人達は幸いである」「心の貧しい」の元の言葉は端的に「貧しい」であったことを知った。私は、以前書いた史的イエスに関する文章の中で当時のガリラヤ地方の貧しさについて触れた。人々は王ヘロデとローマの両方へ税金を払わなくてはならずその重税に苦しんでいた。私は、イエスの祈りが極めて直截であったことに深く共感した。イエスはこの世を歩き回り、人にうとまれていた重い皮膚病の人達の所にも訪れた。貧しさにあえぐ群衆に心を痛め、このような祈りを皆に教えたのだと思う。借金に比べ、罪という言葉はきわめて概念的で、教条的だ。本来の主の祈りのこの部分は次のようなものだったという。

そしてわれらに負債のあるものを赦しましたように
われらの負債をもお赦し下さい。

また私は以前から、マタイの言う「心の貧しい人」の意味が解らなかった。エレミアスは、「心の」の一語はマタイに由来するものであると結論付けている。

信仰義認とは何か。
こんな風に言葉の世界の不思議な深さに驚きながらコロナ禍の日々をすごしているのだが、エッセイの会のメンバーのSさんが、信仰義認ということについて書いて来たので、私はこの言葉について触れておきたくなった。というのは、エレミアスがこの事について書いていたからである。
もともと、信仰義認という言葉が聖書の世界で言われるに至ったのは、キリストの死と復活ののち、信徒たちが世界へ散らばってゆき、ユダヤ人以外の異邦人にもキリスト教を広めようとした時に起こったものだ。異邦人は、律法も知らないし、まして割礼などもしていなかった。ユダヤ人でキリスト教徒になった人々は、その事に激しい抵抗とこだわりをみせた。積極的に異邦人にキリスト教を広めようとしていたパウロは、神を信じることだけで「義とされる」と主張した。
ユダヤ人キリスト者の主だった人々は、エルサレムで会議を開いた。そこで決定したことは、割礼がなくても、かまわない。神を信じさえすれば救われるのだということだ。これを「信仰義認」という。その論拠は旧約聖書の創世記十五章六節にある。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と記されている。この時、彼は割礼を受けていなかった。割礼の記事は十七章に至って彼がアブラハムという名を与えられて後のことである。
信仰義認は問題を孕んでいなかったわけではない。信じさえすれば「善き行いをしなくたっていい」という人々が現れたようで、後の新約聖書の中に「ヤコブの手紙」が書かれる契機になった。ヤコブはそのような人々を諫めて、行いの重要性を説いた。
エレミアスは端的に言う。―義とされるという言葉の意味は神の恵みを得る。ということだと。もともとのユダヤ教の思想は、行い(律法の順守、割礼を受けるなど)によって、神の恵みを得ることだった。パウロはそれを逆転した。人が神の恵みを得るのは、行いによるのではなく、信仰によるのである、と。エレミアスはその信仰について次のように語っている。
「……キリストが私の為に十字架で死んでくださったということである。この信仰こそ、神の恵みを得る唯一の道である」
以上、信仰義認についてのSさんのエッセイは大変高度なものなので、私も不十分だが補足的にアプローチを試みた次第である。

長いコロナ禍生活は一向に終わりが見えない。このエッセイはその自粛生活からの産物という事で、まとまらないがこの辺で擱筆しよう。さっき散歩していたら、例の洋種ヤマゴボウ達が雨にぬれて勢いづいていた。
2020・10