紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

渡辺由子作品集「もうひとつの足跡」について

この度、エッセイの会のご縁で冊子の出版のお手伝いをさせて頂きました。
それで、この機会に、感想をまとめてみようと思います。

全体に
何度も繰り返し読むうちに作者の人生に対する態度や信仰のふかさが私を圧倒した。
冊子の形で、誰もが手にとりやすく写真やイラストを配置してある。一つを読み始めると次々と読み進めることができる。平明な言葉で自分の生い立ちや心の惑い、信仰についてなど率直に語っている。何よりもその清らかであることに打たれた。
幼い頃に母親を失い、継母との間は長い間うまく行かなかった。その悩みや辛さが、飾り気の無い言葉で真摯に語られている。
若き日のこうした悩みと苦しみこそが、作者を育てて、信仰への道を歩むきっかけになっていったことがよく分る。毎回、少しずつ読んでいた時とはまた異なり、こうしてまとまると作者の全体像が見えてきて、「由子さんワールド」に浸ることが出来た。それが何よりも素晴らしかった。一冊にまとめたことの意義はとても大きいと思う。いつか、子供達や孫達が由子さんの世界にふれ、信仰に触れて、思いもよらぬ深いところまで読み取ってくれる日がかならず来ると思う。「こんなことがあったのね」「こんなふうに感じていたんだ!」「イエス様を信じることはこういうことなのだ」……こんなふうに感じることだろう。

第一章
ここには思い出と、身辺雑記が収められている。第一章を読むと読者は由子さんの生活や生い立ちに触れる事が出来、全体を読む準備が心の中に整うことと思う。ここにももちろん信仰が現れている。だが、けして観念的な形ではなく、生い立ちの記述は細やかな出来事がたくさん語られている。私が大好きなのは、やはり江の島と居切浜のところである。幼い頃の写真もとても生き生きと空気をつたえてくれる。従兄弟は後の文章でTちゃんとして登場する。この愛らしいおどけた姿が、いわば人生の物語の伏線かもしれない。
江の島での生活は、海の匂いがして、やさしい伯母さんやお祖母さんが由子さんの想い出の中で生きていることを感じる。バナナを見せてくれたエピソードや、海と岩場の様子、心地よい蝉しぐれ。「いつでしたか、夫に見せようと行ってみた」という一行に、ほほえましさを覚える。すっかり様変わりしていてがっかりした、と。ありのままの、子供の頃の情景を見せたかったのだとわかる。そこにご主人と由子さんとの愛情と繋がりが良く感じ取れたのである。
「小さな胸の内」は、母を失った悲しみがリアルに伝わる。「母に叱られて障子におかあさんのバカと書こうとして「おかあさん」までしか書かなかった。…しかし母亡き後、その障子に書いた「おかあさん」を目にする度に悲しくなった。」14p
この短いエピソードを読むたびに、目頭が熱くなる。亡くした母親への思いが切実で、私の胸に真っ直ぐ入ってくる。良い思い出も沢山あったことだろう。だが、悲しい思い出はいっそう失った存在の大きさや意味を思わせてくれるものだ。私も、母に我がままを言って困らせたことを、母の亡くなったあと、何回となく思いだし、その度に涙にかきくれたことを思い出した。
この様な母親喪失の悲しみが、今の由子さんの心を深いものにしたのだと思う。そして、あしなが育英会への協力もそういう温かい思いによっているのだと思う。
「居切浜」は父方の親戚の家にまつわる回想だ。「私は小三の秋に母を亡くした。それからしばらくの間、父は休日になると父の兄弟の家を順繰りに、私と弟を連れて行った。」「父の兄弟の家へ行ったのは、もちろん私と弟の寂しさを紛らそうということだったと思うが、父自身も兄弟のところに行って、心を休ませたかったのかもしれない」こんな書き出しで書かれている。田舎の風景が目に浮かぶ。お風呂やトイレのこと、海の砂浜の遊び、西瓜を食べたことなど、活写されている。親戚の人々の優しさに心を打たれる気がする。 ありのままの飾らない態度で、それが何とも言えず優しい。お父様が慰めを感じたに違いないと思う。
「高円寺での暮らし」はまた大変細やかに若き日の暮らしが書かれている。「あの頃 ありがとう」と並んで、若き日の子育てや舅さんのことなど家族の風景がよくわかる。
高円寺の下町らしい人々との交わり、お店のことなども楽しい。子供時代に母を失い、継母となった人とはうまく行かず、心を閉ざしていた作者だが、結婚して市井の人として幸せに暮らしていた様子がわかる。ただ、舅の子育てに対する口出しや、「自分も夫も舅には何も言えなかった」そのために「娘に辛い思いをさせてしまった」という。娘さんのことについては書かれていないけれど、進路のことなどでご本人の意に反する選択を強いられてしまったのだと思う。家族で旅行し、実父や継母との旅も良い思い出になった。
「由子と孫達と旅行をしたいなあ」と亡くなる少し前に実父が言ったという文章が後になってでてくる(90p)が、この言葉を大切に拾い上げて書き留めている所がとても良かったと思う。
「ペエスケとルーク」は二頭の犬の物語。写真とあいまって、本当に可愛い。二頭の犬がいかに由子さんを慰めてくれたことかを思う。晩年になると犬は看病するのが大変だ。だが、沢山の笑顔と優しさをくれたことをつくづくと思うのだ。犬にまつわる物語のなかで、家族の姿もさりげなく描かれている。娘さんと遊ぶのが好きだったことや息子さんの看病の優しさや、ルークのサークルをご主人が苦心して「寝床用のキャリーの横に段ボールを置き、これは使用済みのオシッコシートを入れていた」ことなど、犬をとおして、家族が心を寄せ合っている様子が手に取るように伝わった。79pにルークとの別れが書かれている。息子さんが、好物のサツマイモのすりつぶしたものを食べさせたこと、死んだ後、ルークを思い出させるものを見ると悲しいので夫とほとんどのものを捨てたことなど。

第二章 神への道―サダナ
「合唱ボランティアより―母の想い出」には、継母とのことがとても丁寧に書かれており、由子さんの心の優しさに触れた思いがした。気性の強い継母との間柄が、父亡きあと、次第に近くなり、晩年は藤沢の施設まで通ったこと、そして圧巻は継母の死後のサダナの黙想だ。思うままに書くなかで、なんと由子さんのイメージの中に死者が現れ、「ありがとう。わたしのために祈ってくれたね」と語りかける。涙であとは書けない、と由子さん。
ここまで継母と親しくなれたことが本当にすごいと思った。継母の為に一生懸命お祈りをしたが故に、その思いはイエス様を通して継母にも伝わったのだと、素直に感じる事ができた。実父が亡くなってから二十四年がたっていたという。歳月が和解をもたらしてくれた。そのために由子さんが払った努力は一通りではなかっただろう。だが、由子さんは思う。それこそが主の計らいだったことを。そしてこのエッセイを読んだ私にもそのことが実にストレートに理解できた。それはやはりサダナという黙想の素晴らしさでもあるのだと気が付いた。サダナの黙想は、心の素直さが何よりも大切だと思う。由子さんの受容的な感受性がサダナにぴったりなのだ。一つの大きな人生の出来事を通して、サダナのことを語ってくれたのだと思う。

第三章
ここでは特に「私の信仰生活」1、2、に魅かれる。
プロテスタントの教会の人々も大変熱心で、しかも温かかった。今は由子さんはカトリックに変わられたが、その土台を培ってくれたのはプロテスタントの人々だった。由子さんは勉強会にも熱心に通い、聖書を学び、また讃美歌を歌う喜びを味わうことが出来た。この信仰生活の中で特に、実父の臨終の前のエピソードが心に沁みて忘れ難い。なんとかして実父にイエス様のことをつたえたいと願い、とうとう或る日、言う事ができた。「父の目線から見ると空と天井しか見えなかった。『お父さん、空しか見えないね』言うと、父は頷いた。『父さん、苦しくなったらイエス様って言ってね』とやっと言えた。」
このエピソードは本書に二回出て来るが、私はそれでもかまわないと思う。家族にこのように信仰を勧めることは本当にできないことだと思う。由子さんが「やっと言えた」と書いたとき、私は主の祝福を胸いっぱい感じ、「良かった!」と心に叫んだのだった。
由子さんにイエス様のことを伝えられたお父様は、幸いだったと思う。死を目前にして一番大切なことを娘から受け取ったお父様。イザヤ書53章を読んで、イエス様の十字架がまさに自分自身の罪の贖いの為であったと知った、その部分には深く共感した。
聖書のみ言葉を自分自身の今と重ねる事、信仰するとはそういう事ではないだろうか。
「もうひとつの足跡」を読み終え、豊かな時間をいただけたことに感謝しています。
作者の由子さんと、イエス様に感謝。        2020年12月