紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

十七歳の孫愛と散歩をしていたら、「この一年どんなことがあった?」と訊かれた。「一番大きいことはエッセイの会がもう一つ出来たことかな。明眸社でとても素敵な冊子を出版できたこと。あと、ズームというスキルを活用できるようになったこと。それは、コロナのせいだけどね。」
「私は、入院した事かな」と孫が言う。そうだった! 同じ家に暮らしていたのに今年、入院を機に、まるで新しく出会ったように感じた。私たちはお互いにそんなことをかたりあった。
息子が言っていた。「コロナがあったからこそ、お母さんは愛ちゃんと日常を共にできて、面倒もみられたのだね。」言外に、「そうじゃなかったら、お母さんはいつも外に気持が向いていて、毎日どこかへすっ飛んで行ってしまっていただろうから」を含ませた言葉である。そこで、私はこの一年を日記や短歌を使って振り返ってみようと思う。いつか、こんな年があったことを思い出すよすがになるかもしれない。

今迄私はあまり散歩をしなかった。そもそも歩くのが苦手なのだ。歩いていると若者がどんどん私を追い越していく。その度に追いつきたいと思うがまったく追いつけない。愛が、通信制の高校に転校したために、日常生活であまり身体を動かすことが無くなった。だから私は彼女を誘ってあちこち歩くことにした。するといつのまにか歩くことに対しての苦手感がなくなった。はじめは愛の為に歩いていたのに、自分の為にもとても良かったと気が付いた。沢山の植物や空の景色をながめ、夕暮には「やっぱり雲は天才だね」などと言いながら美しい夕日を堪能した。荒地の続くアフガンの映画などを見ると、私の住んでいる小金井市は緑がたっぷりあって、住宅街は手入れが行き届いた庭が随所にあり、同じ地球上とは思えない程美しい。「村雨の露もまだ干ぬ槙の葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ」と寂蓮法師が詠んだ槙。槙の木が色々な家の門構えのところに刈り込まれてある。日本の三大美樹の一つなのだと愛に教える。もっとも真木は常緑の美しい樹木をさす言葉、あるいは固い木を指す言葉で、槙ではないのかもしれない。私は槙を見かけるたびにこの美しい和歌を思い出すのだが。
この一年間、散歩によって生まれた歌がたくさんあった。

病む少女けふはいかなるひと日なる桜大樹に花咲き出でて
家族と離れて三週間の入院をした孫。生活が不規則になってしまったのを直すことを主な目的としていた。やがて、気分も落ち着いて、退院した。それからはいつも私が一緒に散歩をした。

機嫌よくけふは話をしたるかな空にちらばる雲の不可思議
この歌は孫の退院して間もない頃の歌だ。色々と話しながら散歩をし、カフェのテラスでお茶を飲んで休憩をした。図書館へも良く行った。コロナの為か大変空いていた。孫の好きな作家は三島由紀夫。私はトルストイとドストエフスキーを勧めた。

さりながら異界のごとく泡だちて春の木立に緑がきざす
コロナの騒ぎが広まりつつあった。ニンゲンの世界はコロナ一色だ。しかし、木々は美しい紗のような緑をまとい始めていた。その緑に慰められながら歩いた。

退院の少女奏づるハイドンは窓のそとへと溢れゆきたり
元気になってピアノに向かう孫。それを聞いていると、リズムにのって、彼女の精神が自由にのびのびと外へ向かってゆくのを感じた。毎日夕食づくりを一緒にやる。忍耐強く細かい作業をして、出来上がるととても嬉しい。
英語のテキストを二人でボチボチやって、終わりまで進んだ。そのあと、「はつかねずみと人間」(スタインベック)を読む。スラングが多いので、和訳された文庫本を買って同時に読む。日本語の本は、吉田満の「戦艦大和の最期」そのあと「枕草子」を購入した。毎日すこしずつだが声に出して読み、解釈を読むようにしている。声に出して読むのは、心の為にも良いかもしれない。

ねむの花ほのくれなゐにひらくとき寂しきこゑを聴くごとくをり
あの花の名前知っている?と聞き、知らないと言うと、教える。ねむの花の大きな木が団地の庭に立っている。虹のようなはかない花がついていると、もう夏が来ることがわかるのだ。梅雨の雨で一度は消えてしまったが今年は暑い盛りにまた咲いた。

たましひをもつてこの世に生まれしか白薔薇ひらく残光の道
夕方、道の脇の庭に、真っ白な薔薇をみつけた。思わず近づいてしばらく見とれてしまう。まるで一つの花が一つの魂をもっているみたいだ。きれいだね、と共感する同行者がいることをこのうえない幸せに感じる。

学校にかよへぬことも過ぎて行く歳月のなか藪からし咲く
学校へ通えなくて通信制に変わったが、そういう出来事も歳月の中におかれている。過ぎて行く様々な出来事の一つなのだ。藪枯らしが勢いをまして、とうとう花をつけた。この草は見るとすぐ引き抜きたくなる。あらゆるところに絡みつき、粒粒の沢山ついた鎌首みたいな花を咲かせる。

くちなしの白き真白き一輪にかほ寄せてゐる 十七歳は
わー、良い匂い。いくら嗅いでもまだ嗅ぎ足りないぐらいだ。今年の夏、梔子をネットで購入した。吃驚するほど沢山の梔子の木がとどいた。来年は花をつけてくれるだろう。  梔子の花の白さがまだ少女めいた愛の顔に似合う。

鳥ならば息のかぎりを昇るべし十三夜月照りわたる淵
空が、逆さまに見える事がある。空が淵にみえる。月がのぼってくるとなおさらだ。大昔からあったはずなのに、いつもたった今生まれたような表情で空に上って来る月。あんなに誘うんだもの、私が鳥なら、どこまでもどこまでも昇って行きたい。

誰もかも耐へてこらへてゐる夜か柏葉紫陽花りんりん白く
そうだった、もう梅雨のころにはコロナが長引く予感が誰もの心を領していた。会いたい人々にも会えなくなり、施設の高齢の知り合いにも全然会うことができない。そんな人間界を尻目に柏葉紫陽花がやけに元気にりんりんと咲き誇っていた。

蛇いちごの径とをさなの名づけたる草地に雨の気配せまり来
桜の実落ちてか黒き染みとなる疲れてねむる夢のうちがは
武蔵境のほうへゆくと緑地として残されている空間がある。そこだけが住宅街ではなく草が生い茂り、雑木林のようになっている。細長く、道に沿っている。小学生の孫と愛と三人で歩いた。蛇苺の赤い実が草の陰に見える。桜の実も沢山落ちていて、黒くつぶれている。でこぼこの木の根っこにつまずかないように気を付けて歩く。

毒々しく泡立ち草の脈打てる東小金井区画整理の空地
草たち。その名前を覚えたよ。セイタカアワダチソウは名前からして猛々しく、色はいやな黄色だ。帰化植物だから嫌いなのかな。私はへんなところでナショナリストになってしまう。

星星の輝く夜をまたひとつ忘れて枯れて落ち葉とならむ
欅の枝に夕陽が当たって真赤に燃えるようだったのに。枝に星を散りばめていたのに。もう落葉だ。枯葉の匂いのする町は優しい気持にさせる。亡き夫が十一月の道を帰りながら言ったっけ。「もう来年はこの匂いを嗅ぐこともないんだな…」と。本当に彼はあくる年の五月に逝った。それゆえ、枯葉の匂いがいつも亡き人を彷彿とさせるのだろう。

あめつちのうつはに寂しきもの満ちて秋の雨とぞ言ふこゑがする
雨が好きだと愛が言う。私も雨の中を歩くのはけっこう好きだ。傘の円周に守られて歩くのは。傘をうつ雨の音はなんて良いのだろう。激しい音、やさしい音、微かな音。秋の雨に統べられた空間は大きなさびしい器。わたしの心をいれても波打つこともない。

雨やんで欅のゑがくスクロール天の無言をなぞりゐるらし
雨に、風に、欅は生き生きと呼応している。大きな、偉大なと言いたいぐらいの欅。農家の庭先にあって小金井市の保存樹とされていた。それがとうとう伐られることになった。区画整理のあおりをくらったのか、それとも農家さんの都合なのか、伐られるということを知って、覚悟をしたが、何日かはなかなかつらかった。家を出て、空を見上げ、欅の枝がまだあることを確認する。なくなったら、空はもう……がらんどうだ。

ゆふぐれに巣へかへりくる一羽あり空いつぱいに声ひびかせて
風に乗って、流れるように巣へもどってゆく鴉。大きな声で力いっぱい鳴きながら。見るだけで幸せだった。欅がなくなってしまうなんて、信じられないが、もっともっと大きい辛さに人々は耐えている。苦しんでいる世界がリアルタイムに存在する。欅のことなどに構ってはいられない。だが、それでも私は欅を惜しむ。(文中仮名)
2020・12