紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

頼んでおいたえごの木が先週届いた。一メートル位の幼木だ。庭と言っても通路しかないような狭い所で日当りも良くはないが、鉢ではなく地植えにした。今年はとりわけえごの花が美しく感じられたのだ。
初めてえごの花を見たのは今から十七,八年ぐらい前である。井の頭公園の奥の、玉川上水にちかい林の奥で一本のえごの木が花を沢山つけていた。それを見た時、何故だろう、私は「これはえごの花に違いない」と思ったのだった。葉は小さめである。鈴蘭のような可憐な白い花を枝にびっしりと付けている。花はみな下向きについている。ほのぐらい林の中に、その所だけが白く浮き上がってみえた。私はその頃始めたばかりの短歌でえごの花を詠んでみたのだった。

しろじろと林の奥に月光が忘れゆきたるえごの木のはな

この歌は短歌の師がとても良いと言って下さった。その理由は「断定」にあると。私は、この頃、「忘れる」という言葉に惹かれていた。夫に死なれた私はなにか大きな困った忘れ物のように自分自身を感じていたからだ。その言葉のはかないような力の抜けた感じがその頃の私にぴったりだった。そこで大好きなえごの花にもそんな言葉をつかってみたのであった。やがて私は、吉祥寺のカトリックの瞑想の家に通うようになった。玉川上水にそってえごはあちこちにあって毎年五月になると必ず花をつけた。東小金井から吉祥寺まで私は自転車で瞑想に通っていたのだが、この季節は必ずえごの木の近くに自転車をとめては美しい花を見あげた。辛いこともあった。というより辛いことの方が多い時期だったが、えごの花をみあげると幸せ感がふつふつと込み上げてきた。大きな慰めを与えられたように、ひとりでに微笑みが浮かんできた。
その後もえごの花をしばしば歌に詠んできた。玉川上水の途中にあるむらさき橋という橋のすぐ近くにある土手にも鬱蒼とした樹々の繁みにえごが沢山咲いた。ある時は一斉に散って黒い土に落ちていた。じっとみつめていると夫との死別を心の深い所で諦め、その痛みのすべてを受け入れている自分を感じた。それでこんな歌を詠んだ。

訣れより時は満ちしか渡り行くむらさき橋にえごの花散る


今年もえごは沢山の花をつけた。瞑想の師はお亡くなりになったので、私はただぶらぶらと近所を散歩しているのであるが、わが家をでてほどなく、えごの木があって、花を付けているのを見かけた。
ある日、家事が一段落し、自分のコンフォートゾーンと決めているぼろいソファに腰掛けたところ、うたた寝をしてしまった。私はその時、夢の中で四年前に肺癌で亡くなった弟に逢ったのだった。弟とは晩年家族の問題でこじれ、行き来も途絶状態だった。最後に電話をガチャンと切って終わった会話が悔やまれる。だが夢の中の弟は若い頃の元気な姿でコートを着ていた。ベルトをきちっとしめ、どこかへ出かけようとしていた。
弟のことを思うといつも良い姉ではなかったという慙愧の念で一杯になる。小さい頃四歳違いの弟は私と遊んでもらいたくて三輪車をこいでどこまでも付いてきたものだった。母が亡くなった時まだ十二歳だった。母の柩の小窓から何度も何度も覗き込んでいた。
大きくなるに従い私は弟と文学のことなどでとても気が合うようになった。私の影響を受けてか、弟はヤスパースの分厚い哲学書を読んだ。あんまり得意そうなので私は「ヤスパース読了者バッチ」を作ってつけて歩いたらどう、などと言って大笑いした。そのころ弟は浪人生だったと思う。まったく私たちは双子みたいに仲が良くいつも夜になると弟の部屋で語らって尽きなかった。またある雪の日には、庭に積もった雪の中に裸足で立って、どちらが長く耐えられるか競争をした。私の足はみるみる真赤になったが、弟の足は何の変化もなく、この競争は私の負けだった。
私は恋愛していたが、親の了解が得られずに、とうとうある日家を出た。家出をしたその前の夜もいつものように弟の部屋にいって、コーヒーを飲みながら文学の話などして盛り上がっていた。だが弟には家出のことは一言も言わなかった。
だから、翌朝私がいなくなってしまったことは随分ショックだったに違いない。家出をした私は、一人でアパートに住んでいたが、自分のことで精いっぱいだった。弟のことなど全く思い出しもしなかったのだ。家出をしたあの時、私はどんなに弟を傷つけたことだろう。十二歳で母を亡くした弟は、十九歳で今度は私を失った。私は、四十六年もたって、弟の死を人づてに聞いて知った時、ようやくそのことに想いが到ったのであった。

夢にでてきた弟は、なんだか急いでどこかへ行こうとしていた。明るい表情だった。私はぼろいソファから立ち上がり、サンダルをつっかけて戸外へでた。かなり強い風が吹いていた。えごの花のところへ行ったら、花は風の中でゆれ動いていた。

弟よいづこ行きけむ風の中えごの花さくこの世悲しき

2021・6