紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

この度、縁あって相澤尚氏の歌集の出版のお手伝いをさせていただいた。氏は長年の歌友でもあり、尊敬する氏の歌集の編纂をさせて頂くことは望外の喜びである。これまでの作品千八百首の中から厳選五四四首を編年体で編んだ。ここでは編年ではなくテーマごとに作品を考えてみたいと思う。最初にその全作品を通読しおえた時、私はかつてない清らかな世界を心ゆくまで経巡った気がした。鳥や昆虫や植物へ惹かれてゆく作者の心には少年時代のイノセントな魂がそのまま生きているのだろう。
作者は毎月のように探鳥の旅に赴き、また外国へも度々旅行している。全巻通して、鳥の歌が圧倒的に多く、その広々とした空を飛びめぐる鳥たちの自由さと躍動感と耀くばかりの命の横溢は、読後、深い印象を残すものだ。特にこの歌集のタイトルとなっている飛島へは折にふれて探鳥に出掛けている。鳥海山と向かい合う飛島の雄大な風景は春夏秋冬それぞれに魅力があり、飛来する鳥たちの姿も格別である。なお本書には沢山の鳥の名が
出てくるが、表記は初出の歌を変更しないことにした。片仮名、漢字、平仮名が混在するが、その時々の歌の雰囲気や作者の気分を大切にしたかったからである。
飛島以外にも日本各地の沢山の歌があるのでほんの一例だが地名を入れて挙げてみたい。

真向いの岬に不意に四五十の雪ほおじろは白き花びら(春国岱走古丹)
みちし月はあかとき赤く山の端に鶴幾千の闇に寂まる(出水)
ねぐらとる多摩の川原の燕等を光にのぞけば群るる金の眼 〈多摩川〉
オリオンの頭上に輝く夜の明けて凍る湿原に大白鳥群れとぶ(霧多布の湿原)
散りゆきてのぼるとみればいつしかに鷹柱なす灰色の空(伊良湖岬)
西表の夜空に黒くとびゆける大こうもりに銀河ひろがる(西表島)

雪に覆われた湿原やひろがる銀河。ページをめくるたびに、雄大な風景が次々に現れる。飛来する群鳥の姿の魅力に引き込まれる。一首目、雪ほおじろを白き花びらと捉えているデッサン力が心憎い。
とはいえ作者はほとんど表現や描写をせず、ただ言及するにとどめる事が多い。今見えている存在を情景と共に名指しする。その単純さこそが美しさの全てであるかのようだ。この歌集全体に感じられる透明度の高さはおそらくそこにあるのではないか。

杉の樹も松も桜もかなかなと鳴きいづる谷四万の奥谷(四万温泉)
春早く渡り鳥すぎ飛島の大いたどりの葉に青き雨(飛島)
白かもめの餌をうばいとり暗き海にとうぞくかもめの黒々と飛ぶ(苫小牧航路)
はい松にのびあがりいし雷鳥の残雪にきて赤き眉みせ(立山)

一首目、蜩が鳴いているというよりはそこにある樹々が鳴いているのだという景の把握が見事だ。二首目、作者のこよなく愛する飛島。三首目、暗い海の上に展開するかもめたちのドラマ。四首目、雷鳥の「赤い眉」というズームインが残雪に美しい。

児のように汚れ顔してせきれいはサッカー場の朝に跳ね入る
くちばしに綿毛つめこみ電線の四十雀とび桜散り初む
幼きは幼きままに親を呼ぶ雀鷹の声きく青葉の森に
くるくるとまわりて落つる花を受く花に埋もる青きインコは
向き変えて一目散に走り去る狸の元気紅葉の山に

淡々と詠う中に期せずして鳥の愛らしさが覗く。せきれいの顔を「児のような汚れ顔」と見る作者、くちばしに「綿毛をつめこんで」いる四十雀。幼きままに親を呼ぶ雀鷹。あるいは花の中に埋もれて遊んでいるようなインコ。これらの歌に作者の眼差しを感じ、おのずと鳥の世界への親しみが湧いてくる。狸の歌も可笑しみがある。

作者は昆虫のことも沢山詠んでいる。。トンボ、カミキリムシ、幼虫、蝶、蟬。カマキリやバッタ。脱皮を詠む歌もある。

暑き日は珍しき友あり厨には若きかまきり鎌ふりあげて
これもまた遅れし奴か朝の岩に殻の半ばの蟬そりかえる
切り落とすくぬぎの小枝の青き実よ ちょっきり虫の夏となりたり
体ひねり瞬時に後へ跳び去りて枝持つ吾に青虫怒る
ひげ長く地に這いゆくになつかしと手に這わせ見るごまだらかみきり
岩壁にしがみつきつつ羽化しゆく生き急ぐかと油蝉みる
白き毛の虫のつくりし白き繭机上の箱を朝あさのぞく
夜の樹に殻割り出でんと青白き蝉はゆっくり体をそらす

かまきりを「珍しき友」と呼び、また岩に見つけた蝉に「遅れた奴」と言い、あるいは青虫が「怒る」と作者は詠う。これらの歌を読むと作者と昆虫達の間の距離感は至って近い感じを受ける。いうなれ作者は昆虫達と同じ生のリアルを生きている印象を受ける。毎朝繭を覗くあたり、相当な虫好きでもある。

この歌集には母方の故郷気仙沼の、東日本大震災による被災やそこへ疎開していた戦時中の思い出、区民農園での畑仕事のこと、亡き父親の言葉などが詠まれている。

吾が従弟いずこに逃れしと目をこらす終日避難所映るテレビに
背負われて津波を逃れ仮設家に子犬のケメ子は突然に逝く
目の前に道路を過り鎮座する巨大漁船の鹿折駅前
海底に土台の断片蒼く沈み吾が里の家土地ごと失せて

作者は東京で育ち暮らしてはいるが気仙沼は子供の頃の疎開先で今も従弟との交流がある。従弟は被災された。一首目はその時の歌である。二首目、子犬も背負われて助かったのに仮設住宅で死んでしまった。三首目、実家のあったところは土地ごと海に沈み、覗くと水底に蒼く家の土台が見えたと言う。これらの歌の詠みぶりは淡々としており、感情を抑えて事実のみを歌うことでかえってそこに作者の驚きと哀しみが強く伝わってくる。
幼年時代の歌には戦争、祖母や母親、疎開児童の学校生活などが詠われる。

港いだく山の陰より艦載機一機一機と襲い来し夏
行商の魚かごを背にみちのくの田畑の畦をこごみゆく祖母
畑にも牡蠣の筏にも連れだちて疎開児吾を守りし叔母は
戦争の日々のはるけく疎開児のひとりのかなしみ淡彩画に似て
波の音ききつつねむる疎開児の吾に添い寝の母一度きり

東京の西郊外に住む作者は区民農園に土地を借りて妻と農作を愉しんでいる。「はたけ日和」という魅力的な言葉が見出される。

テラスには三羽の雀飛び来る窓辺の病床の妻と喜ぶ
小ぶりながら紫の色好もしと食卓に六つ区民農園の茄子
ひよどりの鋭く啼けば冬畑の小松菜食むと妻の嘆くも
ぼんやりと考えつづけているような赤とんぼいる駅の石段
鎌の手を胸にかまきり祈るかに駅のホームに青く平びて

「病床の妻」とテラスにくる雀をよろこぶ、素朴な優しい歌が心に残る。畑にまつわる歌には妻の姿も活写されており、ここに作者の日常が描き出されている。同時に控えめだがこの作者ならではの述懐もある。赤とんぼやかまきりにさりげなく託されたこれらの歌がとても印象的だ。

一年は本当に長いよと寝たきりの父のひとこと新緑によみがえる
秋祭り神輿を担ぐ父のいて青梅街道はるかな蒼空
育ちゆく柿の嫩葉の勢いを妻喜びて語りし朝も
「自家製」を逝きし妻にとはるばると送りくれたる友の白桃

亡き父親を詠う歌が温かい。新緑のもとを歩きながら思い出すひとことは何と切ない言葉であろう。五年前お連れ合いが亡くなったがその挽歌はなかなかまだ詠えないという。柿の嫩葉を喜ぶ姿が今は思い出となってしまった。

沢山の旅の歌も存分にお楽しみいただけると思う。実に足まめな作者である。外国の旅の思い出もそれぞれに細やかなタッチで空気感があり、心惹かれる。

白き船に下るナイルの夕光に二月の燕低く飛び交う (エジプト)
ブキテマの丘へ熱帯雨林の道細くなべて巨大な落ち葉踏みつつ(シンガポール再訪)
一瞬に白き全身跳ね出でて腹の筋肉うねる白鯨(ヴァンクーヴァー)
槍長く肩に兵士の青く立つ古きタイルのブルージュの市(ブルージュ)
カジュラホの明けの街道自ずから列なり歩む牛の寂けさ(インド)

また体操仲間を始め、「友」が詠われている。それらの歌も捨てがたい味わいがある。

野のねずみ町のねずみと思いつつ湖北の友の退職の家訪う
友の庭の檸檬五つをもらいたり体操終えて喜び帰る

最後に飄々と歩む相澤尚氏の自画像ともいえるような一首でこの解説を締めくくることにしたい。

樹々の実も吾も青しとすずかけの棘の実ひろい風の中ゆく