紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

迂回路の恵み―出エジプト記と私の信仰
                  
私はカトリック碑文谷教会(東京都目黒区)にて「聖書百週間」の奉仕者をさせて頂いております。今読んでいるのは出エジプト記です。紀元前十三世紀頃の出来事を伝えています。聖書には、奴隷状態であったエジプトからイスラエルの人々が海を奇跡によって渡り、シナイ半島へと脱出したと書かれています。エジプトから目指すカナンまでは地中海沿いに行けば約七日間の距離でしたが、「そこは敵が多い」との神の導きで大きく迂回路をとり、シナイ半島を南下して荒れ野を旅していきました。彼らがカナンへ向かって北上するまでにはなんと四十年という歳月が必要でした。出エジプト記を読んでいますと荒れ野での苦しい日々がありありと現前するように感じられます。飢えと渇き、毒蛇や敵の襲撃。そして皮膚病(重い病い)にかかれば集団から追放されなくてはなりませんでした。毎朝毎晩、人々は燔祭として雄羊を焼き尽くし、そのかぐわしい煙を天へ届くようにと捧げていました。荒れ野の遥か遠くからでもその煙を見ることができたことでしょう。「焼き尽くす」とは、全ての恵みは神に頂いたものであり、感謝をこめて一切をお捧げ致します、という象徴的な行為でした。その祈りの迫力は想像するに余りあります。思うに医学も文明も未発達な世界にあって人々は絶えず襲い来る危機に怯え、自らの弱さを強烈に感じていたのでしょう。それ故にこそのこの祈り、捧げものだったのではないかと思います。神よりほかに頼れるものは何一つなかったのです。しかし医学や文明の発達した現代であってもコロナ禍や原発事故でも分るように私たちの弱さはかなさは出エジプト記の人々と大差はないように思います。

 余命宣告を受けた夫とのこと
 私が信仰を得るに到ったきっかけも、やはり自分の弱さに直面した時でした。私の夫は六十三歳の時に白血病になりました。とても元気な人でその年齢になるまで自分の血液型さえ知らないぐらいでしたが、妙に疲れやすくなったので検査を受けたのです。結果は白血病でも最悪のケースで余命六ヶ月でした。それからというもの、毎朝私は暗いうちから起き出して家の周りを歩き回りました。心痛のあまり横たわっていられなかったのです。体がふらつき私まで病気になったのかと思いましたら、食事をすることを全く忘れていたのでした。夫の輸血の為に病院へ定期的に行きました。ある日は、病院へ行くための身支度を終えると、私たちはどちらからともなくひしと抱き合いました。何と無力な私たちだったことかと思います。彼は私に、「もし君が僕みたいになったら、君は弱いひとだからとても堪えられないだろう。君は宗教を信じると良いよ」そう言って、少し考え、「そうだな、君にはカトリックが良いだろう」と勧めてくれました。彼は私より九歳年上でした。洗礼は受けていませんでしたが終生イエスを誰よりも愛していて、聖書をいつも読んでいました。私たちが知りあったのは高校の聖書研究会の合宿で、先輩後輩の間柄だったのです。若かったころ、彼は私にリジュの聖テレジアの伝記を読ませてくれました。そのとき私は十七歳でしたが、テレジアの伝記から一生変らぬ影響を受けました。その後修道院での黙想会に参加したこともありましたが、洗礼を受けるには到りませんでした。その大きな理由の一つは聖書の世界が異邦人とユダヤ人を峻別しているように感じ、自分が異邦人であることを突き付けられるような気がしたからでした。のちに聖書百週間の学びの中で「異邦人」は聖書の中の重要なキーワードの一つであることを知りました。パウロは異邦人の為にこそ命をささげて宣教しました。そして選ばれた民イスラエル(ユダヤ)は、〝全世界が神の祝福に入る為の基となるために選ばれたのだ〟という事を知ったのです。

 中学時代の恩師と神様の摂理
 夫が余命宣告を受けての苦しい日々の中で「カトリックへ行きたい」と私も切に思いましたが、漠然とそう願うだけで、どうすればよいのか見当もつかず、看病に追われておりました。年賀状の添え書きに、何人かの方へ、夫が病気だという事を書きました。すると、中学の恩師島田ミサオ先生がお電話を下さったのです。先生のお声を聞いたのは、本当に数十年ぶりのことでした。「ご病気と書いてありましたけど、どうされたのですか」と。その時、私は先生がカトリック信者でいらしたことを思い出しました。その瞬間に私は神の強烈な摂理を感じたのです。私は受話器を持ったまま涙が止まりませんでした。
 私が欠かさず先生に年賀状をお出ししていたのは、理由がありました。中学三年生の時、私は実母を亡くしました。先生は家庭科を教えておられ、それは私の一番苦手な教科でした。宿題にブラウスを仕上げて来るように言われても、家には教えてくれる人もなく、やっとの思いで提出しました。いつも授業が嫌でたまらずそっぽを向いて反抗的な態度をとっていました。ある日の授業で、先生は若い頃の思い出を話し出されました。先生は若くして結核にかかり、小金井の桜町病院に入院されました。喀血する先生を、粘々してスジを引いている血液を汚がりもせずに懸命に介抱してくれた同室の方がいました。見ず知らずの私にどうして親切にして下さるの、と訊いたところ、その方はご自分がカトリックであると仰ったそうでした。やがてそのことが一つのきっかけとなり、先生はカトリックの洗礼を受けられたのでした。いつしか私はそのお話に引きこまれていました。そのような深いお話をして下さる先生はいませんでしたから、家庭科は相変わらず苦手ではありましたが、私はそれから態度を改めました。そして卒業後もずっと欠かさず年賀状をさしあげていたのでした。
 先生は電話で私の話を聞くとすぐ吉祥寺教会のウマンス神父をご紹介くださいました。神父は東光庵という瞑想の会を持っておられました。東光庵には「すべての思い煩いを神に委ねなさい。神があなた方を顧みて下さるからです」というみ言葉(ペテロの第一の手紙五章七節)が額に掲げてあり、このみ言葉は神父の世界そのものでした。このみ言葉のとおり、すべてを神に委ねることが私の信仰となりました。いつも東光庵へ行くと島田先生が丹精された花が美しく清楚に活けてありました。そして、夫亡きあと島田先生に代母になって頂き、私は洗礼のお恵みに与かることができたのです。若い頃にリジュの聖テレジアに感銘を受けてから長いながい歳月がたっていました。
 迂回路の恵み
 私は出エジプト記を読むたびに遥かな昔の物語が今の私の心に直接語りかけてくることにいつも新たな驚きを覚えるのです。荒れ野の迂回路をさすらって苦しんでいた日々こそが、実は神と出会う恵みの日々であったことを感じます。「私の言葉を守るならお前たちは私の宝、私の民」「私たちはあなたの言葉をすべて実行します」と神と人々との応答が十九章に生き生きと書かれています。苦しみのどん底で弱く頼りない自分たちの叫びを聞いて下さる神を、知ることが出来た人々。私はその姿と自分を重ね合わせずにはいられません。長かった迂回路の果てに島田先生とウマンス神父にお会いし、すべてを委ねる信仰の道へと導いて頂くことができたからです。 

                          2021・11