紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社


この歌集は長いタイムスパンの歌集である。私はこの度の出版にあたり微力ながら編集のお手伝いをさせて頂いた。芦川悦子さんが短歌を書き始めたのは一九九一(平成三)年で、すでに約三十年が経過している。第一歌集なのでやや多めであるが、五二四首を収めた。第一章は、「水晶短歌会(水上良介先生)」「アララギ(黒部一夫先生)」「かんな月(原田清先生)」などにて指導を受けていた頃のもので、第二章は、「未来短歌会」入会後の、岡井隆先生、桜井登世子先生のもとで書いておられたものをまとめた。
 私は芦川さんとは結社「未来短歌会」の桜井登世子師の歌会で出会った。日常生活の中で見つける小さな存在をよく題材にされる。たとえば可憐なお孫さん達のことをよく詠い、また路傍のムスカリなどの青い花が好きである。この歌集を読むまでは芦川さんの静かな落ち着いた雰囲気のままの世界を感じ取っていた。だがいま手元の原稿を読むと、印象はかなり異なる。そこには様々なドラマがあり、苦しみや嘆きや清らかな喜びがあった。
芦川さんは青山学院高等部の山岳部にて、夫君と出会う。若く一途な恋愛があって結婚し、一男二女を得た。夫君は、仕事の関係で単身赴任をすることが多く、姑や義弟妹の世話も含めて子育ての苦労もすべてを芦川さん一人で担うことが多かった。そんな中で短歌と出会い、地元の教室に通って詠いはじめられた。
 一読して夫君の各地への単身赴任の長かったことや、八年間学童保育所に勤めて子供達と放課後を過ごしたこと、長く色々な病気に苦しんだこと、孫達の世話を引き受けて来た事などが見えてきた。ここでは歌を引きながらその世界を見てゆくことにしたい。
 
 頑なに無口な夫の胸たたき吾は何かと泣き叫びたき
 山という共通の言葉失いて無口なる夫の背をのみ追いき
 寡黙なれど居れば明るき食卓の夫の座空しく映すともしび
 防人の如くに企業戦士なり島根・中国と夫は帰らず

 歌集全体を通して夫君を詠う歌は圧倒的に多く、七一首、約十三%ある。ここに引いた歌は比較的初期の歌である。無口な夫にとって一体自分とは何者なのかと苦しい問いを心に深く持ち続ける歌である。四首目、食卓の寂しい歌が切ない。

 新婚の吾に母と弟妹を託して赴きし今も赴く夫
 新婚を二人っきりで居たかった 傘寿の旅の宿に憩いつつ
 
 前半と後半に置かれている新婚時代を回顧する歌である。大家族を一人で抱える苦労は並大抵ではなかった。傘寿の旅先での心情の吐露が切実に響く。

  浜岡の小高き砂丘に夫と吾の足跡深く海へと続く
 任を受け山陰の地に行くと言うわが防人の夫の背見つめる
 稚内は寒きと告ぐる夫の声闇せまる部屋に会いたさ覚ゆ
 赴任地に戻り行く夫の後姿小さくなりて角に消えゆく
 わだかまる思いともない行く旅の日本海の波吾を洗える
 こだわりの思いは波にのまれゆく藍より蒼き海の深まり
 
 様々な折に夫君を詠われた歌をいくつか引いてみた。時には単身赴任の夫君への屈折した気持ちも詠われる。最後に挙げた二首、日本海の歌はどこか辛さを引きずっているようだ。それでも深い蒼い海を前にして心は宥められる。

  遥かなる島より夫の帰り来て若き日の汝に会いし思いす
  夫が愛でし布袋葵の今朝咲きて帰宅待たるる華の一日
 夫が居る北海道に似た雲が高く流れてビルの間に消ゆ
 無口なる夫が発した「ハッピーバースディ」吾が誕生日の朝の出来ごと
 久びさに料理の皿は増してゆく盆の休みの夫の帰省日
 プランターに初めて植えし獅子唐の青きを見せんと夫を呼ぶなり
 総身に若葉の光浴びながら夫と吾との器買うなり
 墓原の夕陽は淋し夫とわれの影二つして坂を下り来
 赤に咲くストック二輪卓に飾り夫との暮しに添うる彩り

 さりげない日常が類いなきもののように丁寧に詠われている。また、赴任地から帰宅する夫君を迎える心弾みは、卓上の花や料理の皿数といった具体によって生き生きと伝わる。
 八首目の墓原の歌は山岳部時代の友人の墓参りをした時の歌であるが、深い陰影をもっている。淋しい夕陽は人生を照らしており、二つの影が並んで坂を下ってゆくという、客観化された視点が夫婦の姿をせつなく炙りだしているように思う。
 この歌集は一言で言えば芦川さんの相聞歌集であるとも思う。長い人生を通して一途に夫君を待ち続け、さながら新妻のようにいそいそとその帰宅を喜ぶ芦川さんの姿が読むほどに鮮やかに見えてくる。
       
       *
  幼日の貧しき父母のクリスマス三温糖が枕辺にありき
  わら半紙二枚一円の商いの若き父はは三人を育て
  引越の荷はすっきりと乗せられて父母移りゆく娘の住む街へ
 人気無き待ち合室の逆光の父母の背中に胸つかれけり
 父母看つつ妹が縫いし巾着とスカート届く午後は優しき
 荒川を渡れば父母の住まう町潮風の吹く駅に降り立つ
 
 比較的初期の歌から、ご両親についての歌を引いた。戦後の日本では誰もが苦難の生活を強いられるなかで必死に子育てをして今の日本の屋台骨を築いてきたのだが、そんなご両親に注がれる作者の眼差しが温かい。ご両親はその後不動産業や大きな文房具・事務用品・事務機器の専門店を営むようになり、芦川さんは店の差配を全面的に任されていた。
高齢となられたご両親が身を寄せ合うようにして病院の待合室におられる姿を「胸つかれけり」と詠む四首目には娘としての思いが強く読者に伝わってくる。ここに引いた一連を読むとご両親は妹さんの住む町へと移住されたようである。ご両親を訪問する歌がいくつか歌集に見られる。「潮風の吹く駅」というフレーズが印象深い。

 舞う雪に父を思えり今ごろは透析の窓に雪を見るらん
 意識なき父の瞳とハタと合う一人の夜は淋しというごと
 わが涙わが悲しみのとめどなく父は逝きけり虫の音の止む
 幼き日の吾を起こして酔いし父の指さす方に天の川ありき
 亡き父が小学校に植えたりし桜の幹には瘤もり上がる
 
 一首目は透析を受けている父への思いが降る雪と重なって迫ってくる。幼い頃の思い出の中で、小学校に桜を植えたという事や寝ているところを起こして見せてくれた天の川のことなど、父への想いが溢れている。

  荒川を渡る彼方の家並みに背のこごみし母が待つなり
 看し母はホームに行くと泣き居たる妹の背を撫でてやりたし
 明日はもう施設に入るはかな気な笑顔の母に夕べ別れき
 
 一首目は「荒川を渡る彼方の家並に」と距離感をもって詠いだされている。その距離の向こうに母はすでに老齢となって「背のこごんだ」姿となって自分を待っている。芦川さんの気持は何も書いていないのに、いやそれ故に、たいへん強く伝わる歌である。介護していた妹へのねぎらいの思いもただその背を撫でてやりたいという短い印象深いフレーズによって深く伝わってくる。三首目の「はかなげな笑顔」という言葉には万感の哀しみがこもっているようだ。父と母への思いの深さは、おそらく愛されて育った作者ならではの豊かな感性に裏打ちされているように思う。
         
         *
  一人ひとり大人の事情背負いつつ子供等今日も健やかなりし
 ひまわりの種を煎る香に子供等は「先生なあに」と珍らし気に来る
 神様は値なき吾を顧みて今日も賜わる児等の歓声
 ようやくに吾が投げし独楽の回る時子供ら声上げ喜びくるる
 
 学童保育所での子供達の歌から引いた。子供達と一緒に遊ぶ作者の姿が実によく描き出されている。子供たちの歓声を神の賜物と詠う作者。自然体で子供たちに接し、自らも楽しく過ごすことの出来た学童保育所勤務だった。八年の勤務は病のために終わった。

  遊園地休園なれば聞き分けて森の小径を駆けて行く子ら
 葉桜の影より舞い散る花びらを幼き咲良は「しろいあめ」という
 孫がくれしタンポポひとつ盃に浮かべれば今宵の夢に見るらん
 狭庭辺に庭砂利五つ並びおり帰りし幼の手形のように
 飛び上がる鳩を追いつつ両の手を翼のように広げる祥太
 冬草を裸足になりて踏む祥太大地の感触吾は忘れし
 マンションの幼二人は祖母の家を「空気が多い」と寝転びて言う
 怠りてさ庭に茂る雑草を「一人で植えたの」と幼は問えり

 芦川さんはお孫さんの歌も沢山詠んでおられる。「特殊を詠う」ことの大切さがこれらを読むと大変よく理解できる。それらは一読忘れ難いものばかりだ。ここに幾つかを挙げてみた。四首目、孫の帰ったあとに庭の砂利が並べてあった。そんなことをして遊んだのだろう。愛くるしい姿が目に浮かぶとともに、帰ってしまったあとの作者の寂しさも伝わる。幼児の言葉がカギ括弧でそのまま出て来る歌は、二首目の降って来る花びらを「しろいあめ」、七首目マンションに比べて戸建ての家を「空気が多い」、八首目草取りを怠って雑草の繁る庭を見て、「一人で植えたの」など子供らしい奇想天外さが忘れ難い。
         *
  生き物が突然暴れるごとくにも朝な夕なに痛む傷跡
 手術より三年痛みて落ち込めば夫、娘は時に困惑の顔見す
 胸骨を走る痛みに耐えかねて手当り次第に物を投げたき
 七度の神経ブロック詮なきに痛みも身の内と受け取めてみん
 
 一九九六年に肋骨腫瘍の手術を受けられたのち、激しい痛みに苦しむようになった。家族も心配しつつも途方に暮れておられたことが分る。今もって芦川さんは神経ブロックという方法で痛みの治療を定期的に受けている。

  告知受けどこをどうして帰りしやファミリアの服紗映に買いたり
 放射線治療を終えた夕暮に職人は屈みて土間コン打ちおり
 玄関に鍵かける時愛媛より「すまぬ」と電話のありて泣きたり
 
 追い打ちをかけるように二〇〇四年に乳がんが見つかり、温存手術を受けられた。放射線治療、ホルモン療法が続き、結局痛みや体調不良は五十代半ばから六十代は病が続いてしまったのだ。まもなく八十歳となる芦川さんは、七十歳になる頃迄元気を取り戻せなかったのである。また最近は骨折をされ絶対安静を命じられたこともあった。
 
 夜の風に頬を染め花を届け来る嫁の元気が我身に移る
 病床に友より賜いし柿の実の赤きに希望の輝き見ゆる
 幼日に厳しきことのみ言いし吾が病めば優しく寄り来る子等よ
 
 これらの歌は、そんな芦川さんを見守る人々や自然を詠っている。病気にならなければ気付けなかったかもしれない優しさが詠い止められている。

        *
 幼子は白きスカートひるがえし青き野原の風になりゆく
 ことほぎの光の満つる天空に銀杏は銀に輝きて立つ
 うぶ毛光る枇杷の実見れば四人の孫に会いたくなりぬ両手ひろげて
 からすうり音符のように垂れている吾の心を弾ますように
 信号の緑の人がまたたけば吾は小走りに歩道渡れり
 腎臓の悪き老猫抱き上げて「主われを愛す」を歌ってやりぬ
 振り仰ぐ雨のち晴れの青空の積乱雲は力強くも

 
 最後に作者の人柄を表わすような歌や見事な修辞に注目した作品を挙げた。一首目は、韻律の美しい作品でしかも絵画的な魅力がある。二首目、天空に輝く銀杏の木、三首目は歌集のタイトルとした歌である。枇杷の実にうぶ毛があるという発見とその可憐な実に孫達を思う連想が歌の彫を深くしている。四首目はからすうりを音符のようだと無心に見上げている作者の心の透明感が伝わる。六首目は信号機の中に描かれているマークを「緑の人」と表わし、どこか牧歌的な雰囲気があり芦川さんらしい作品だと思う。六首目は病気の猫を抱いて、賛美歌を歌ってやる、これまた芦川さんらしさが全開の歌だ。最後の一首は歌集の掉尾に置いた作品である。芦川さんが雨のち晴れの人生をこれからも力強く詠い続けていかれることを願って解説を終えることにしたい。
                               2022・5