紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

巨大ワニ寒河江淳二
 寒河江淳二さんの『樹下聴風の記』がこの度刊行された。縁あって私の出版社から発行して頂き、約半年近くを費やしてこの作品集に向き合うことが出来たことを改めて大変にありがたい事だったと思っている。
 以下は昨日フェイスブックに書影と共にUPしたコメントである。
寒河江淳二さんのエッセイ集を発行しました。八年間のエッセイの集大成です。彫刻家にして建築家、声楽家でもある寒河江氏は縦横無尽にジャンルを闊歩しています。磊落な江戸っ子調の読み易い文体で、しかも資料を駆使して精緻な論を展開。百二十枚余の図版が魅力的で、作者自身の絵や彫刻、イラストも豊富に堪能できます。まさに、今日ここに思想家寒河江淳二が誕生したという感慨を持っています。
 このコメントはけしてオーバーではない。これまで毎月エッセイの会で寒河江氏の文章に接し、切磋琢磨してきたのだが、全体として眺めた時、それまでとは異なる寒河江像が俄然私の中で立ち上がってきたのだった。譬えは悪いかもしれないが、「イモリだと思って面白がっていたのだが実は巨大ワニだった」ぐらいの驚きである。
 書籍化の話が出る前から、書籍にすぐできるような原稿の書き方をされていた。文中の出典資料を明記し、その何ページからの引用なのかまで分かる。テーマは彫刻、絵画、建築、音楽、言葉、宗教など多岐に亘っているものの、どのエッセイを読んでもいつも新たな、そして彼独自の発見に基づいて書かれていた。どこへ行っても、何を見ても、「あれ、これはどういうことなのかな」と、人の気付けないところに発見をする。そう、彼のエッセイは常に発見のわくわく感に満ちていた。しかも文体が江戸っ子調なので、読むほどに作者の肉声がじつに生き生きと聞こえてくるのである。
 だから私は常々冗談半分に「寒河江さんが出版するなら、『寒河江淳二の歩き方』っていうタイトルが良いのでは」と言っていた。しかし、この度ゲラを読み込むうちにそのような通り一遍なタイトルではとうてい内容を表わしきれないことに気がついたのだった。

セザンヌの風景画と「気」
 冒頭、セザンヌの「サント・ヴィクトワール山」を見ながら、そこにそれまでの西欧絵画の世界がもっていた「絵画観」とは異質なものを感じる。そこに描かれているのは確かにサント・ヴィクトワール山なのだが、近景から遠景へいたる画面構成、タッチ、そしてなによりも絵の中に無造作に残されている余白から、本当にそこに表現されているのは空間(奥行)であり、空間に漲る「気」ではないかと気付く。セザンヌがジャポニズムを否定的であったことは有名な話だが、しかしそこに見出されるのは、水墨画、山水画に通じるものではないか、と寒河江氏は言う。そのような仮説のもとに、山水画や水墨画と「気」にまつわる様々な先人たちの論文を紹介する。そして、彼は次のように記している。
「気という概念、これを用いれば、世界もしくは宇宙全体と個を、一気に貫く原理を打ち立てることができ、はたまた全体が私で、私が全体であるというか、主客合一というか、とにかくとてつもなく大きく全体を包含できる何かが会得できるのではと考えている……」
 セザンヌの風景画をみて直感したことが、次第に確信へと変わってゆくそのプロセスこそが読者としてはとても楽しい。そこで本稿ではその辺りに絞って書いていきたい。

「気」は韓国の鍼灸の基本
 第三部で、韓流ドラマの紹介がある。歴史的な背景をもとにハングルの解説まで交えつつ、韓流ドラマの面白さを様々に伝えた中で、韓国では医師が宮廷権力闘争に役割を担ったことが書かれていた。そこに韓国の独特の医術を語りつつ、やはり「気」の流れを調整することが病気を癒すという、その医術の基本に至るのである。
「韓国の治療の決め手である鍼灸は患部のどこかに直接刺激を与えるというわけではなく、単に身体全体の気の流れを整えているだけの事だという。病気という現象は、健常状態ではバランスのとれていた体内の気の流れがどこかで滞ってしまうことで起こるという。体表には何百というツボがあり、体の各部分とは経絡という、いわば気の通り道でつながっている。この経絡はネットワークが形成され、その中を気が駆け巡っているというわけである。それが滞っている部分に最も通じやすい体表の部分「ツボ」に鍼灸を施すことで、全体の気の流れを正常化させる。すると人体が本来持っている生命力が働きやすくなり病気は快方に向かう……」
 このように笏書いたのち、セザンヌの風景画シリーズは山水画に通じているのではないかと推察した冒頭のエッセイに再び立ち返り、次のように書く。
 「要は気は空間に満ち満ちており、万物を形成しているというのである。そうなると気は何かエネルギーの様なものなのか。そして身体のうちにも漲り、生命、活動をつかさどっているという事は、それぞれの身体は気を通して万物に繋がり、逆に万物はそれぞれの個体に向って凝縮してくるということになる」「かくも広遠で深大なる気。『気がわかったら全てがわかる』のでは……」

気と聖霊
 このような「気」についての考察が続いたのち、終章において古今東西の神話や宗教の世界でも「気」やそれに類するものが現れていると、寒河江氏は語るのである。
 まず、建築設計という職業柄、しばしば日本古式の地鎮祭に関わって来た寒河江氏は、つぎのように神社のありようを語っている。
 「…神道にとっては、ご神体が最も大切なものであって、建物はどうでもよい。場合によっては無くても良い。というわけだ。さてそのご神体にしてからが、確かにそれに向かって拝みはするが、それそのものを神だと思っているわけでは無い。三輪山にしろ、鏡にしろ、そこに神が宿りやすそうだから拝むのであって、仏像や、マリア像など偶像を拝むのとは本質的に異なる。神は、いつもはどこに居るかわからない。こちらの必要に応じてそのご神体を通して現れるというわけなのだ。まだに「神は空に在り」なのである。‥‥…」
このように語ったのち、地鎮祭の詳細を説明する。神の為の「場」の設定である。そして式典の模様を次の様にしたためている。
「…こうして神様をお迎えする準備がハード、ソフトともに整ったわけである。そこに神様をお迎えするのが「降神」。この儀式が面白い。神主が笏を前に捧げながら身を深く折り曲げて、ウォーーーとばかりあたかもサイレンの様な声を一息で発するのである。定説では、神様が降臨した事を伝えるサインということになっているらしいが、私には、この声が一筋の音の柱となって天に上り、その柱を伝って神が降りてくるように思えてならない。というよりそう想像して楽しんでいる。……」
 この本はテーマごとに編集されているので、この文章「神は空にあり」は終章に近い第十三章に収められているが、書かれたのは二〇一四年の七月である。私達エッセイの会が始まって間もない頃の作品だ。とても興味深く読んだことを覚えている。それから六年後の二〇二〇年四月から七月にかけて、彼はこんどはキリスト教における聖霊と「気」について書いた。
 まず、四月に「聖霊・風・息(プネウマ/ルアク)そして気」のタイトルのもとに書く。旧約聖書の創世記の、天地創造の箇所の日本語訳を五種類ほど読み比べ、創世記にある言葉「霊」に「気」を当てはめることが出来るのではないかと気付く。さらに四大文明発祥の地にある世界創造の神話のなかから、特に中国・台湾の神話に「気」が満ちていたことが書かれていたことから、旧約聖書の創世記との親近性を読み取る。
 寒河江氏は聖書が語る三位一体(父、子、聖霊)では、聖霊こそがじつは最も重要なものであり、神とイエスはその聖霊(気)の擬人化されたものではないかと「妄想」する。
 (クリスチャンの信じる聖霊と寒河江氏の「気」が同一かどうか私にはわからない。というのは、キリスト教は神にも聖霊にも「人格」を明確に見ているからである。)
 寒河江氏はさらにこのテーマを追求、六月には「聖霊から『気』へ」を書いた。私達が接している翻訳の言葉がヘブライ語からギリシャ語へ、そしてラテン語、英語と変遷したのちに日本語の「霊」にいたるプロセスを紹介し、まるで伝言ゲームのようであるという。おおもとのヘブライ語では、「ルーアハ」とは風、息、のような、エネルギーのようなものであったのだが、翻訳の変遷のなかで、精神、霊という意味に変っていった。特にギリシャ語のプネウマ(プネブマ)となったときに、ギリシャ特有の思想が加わったようだ。つまり肉体とは別に不死の霊魂があるという考え方である。ルーアハがプネウマに変った途端に不死の霊という観念が入った。さらにラテン語においてはスピリトゥスとなり、ここでギリシャ語には残っていた「空気」を含む多義性が失われた。さらに英語スピリットとなると、「肉体に対して精神、心を表わす」。あるいは「肉体から離れた霊、魂、霊魂」等々と変ってゆく。日本で英語訳をもとに訳された明治時代の聖書では「霊」と翻訳された。今、ヘブライ語に立ち返って考えるなら、「霊」は「神エネルギー」あるいは「神の気」と訳すのが相応しいのではないかと寒河江氏は言う。
 さらに翌七月、「聖霊における『「聖』と『霊』」を書く。ここでは、そもそも聖書に現れる「聖」の元の意味は何なのかに思いを深めていく。聖の元の意味は「隔絶している」「遮断している」であり、聖書の中で神に関連して用いられることにより、特別な意味が付加された。出エジプト前夜のモーセが燃える芝の中に神の声を聴く。お前の立っているところは聖なる場所だから靴を脱げと言われる。そこで寒河江氏は、これは地鎮祭における神とのやり取りの「場」の設定と全く相似形ではないかと思う。神道に於いては様々に御神体があり、汎神論のようでもあるが、寒河江氏はそれを宗教として未熟であるとか、呪術のレベルに近い等とは思わない。次のような印象深いパラグラフが続くのである。
 「ここまで「聖」と「霊」の語彙にこだわってきたのも、キリスト教上の神学論争をしたかったわけではない。これらのキリスト教における、基本的な語彙を源泉に近くまでたどることによって、宗教として形あるものにまとまってしまう以前の、原初的な信仰の形態がうかがえるのではないか。そしてほかのそれぞれの宗教も、同様にもとをたどれば、ある共通の地平が開けてくるのではないか……」

  セザンヌの風景画を起点として始まった「気」にまつわる論考はこのように幅をもち、広がりを持って次第に大きく深い寒河江ワールドを形成してゆく。
 私が見たところ恐らくそれが本書を貫く背骨のようなものであり、寒河江氏の思想的な到達点とも言えるようだ。そのような思いから本書のタイトルを『樹下聴風の記』と提案した。

終わりに
 本書には、「運慶なるものの広がり」、「渡辺省亭」など芸術論が多く掲載され、また日本の童謡や、施政者がおこなう言葉の詐術的な使い方、日本国憲法、気候温暖化、スモウについてなどまだまだ書きたくなることがたくさんある。特に地球温暖化についての文章は沢山の文献を引用しつつ、今の世の中の「常識」に真っ向から異を唱えている。
 また、信州の無言館に岳父の彫像を納品する話はリアルタイムであるが故の強い牽引力をもっている。
 だから、この本をアトランダムに読むのも楽しいだろう。私はこの本が多くの読者を得ることを願ってやまない。大変雑ぱくだが、取り敢えず本書を紹介した次第である。
  

  樹下にありいかなる風を聴かむかな吾のあゆみの覚束なくて    
       2022・12