紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

 乳がんの手術を控えている酷暑の日々、古いノートを整理しようと開いたら思いがけず 懐かしい日々の記述に出会った。子供たちを育てていた頃は無我夢中だったが、一つ一つ の出来事が私にとって大切なものであることを感じた。母親としては要領も悪くて息子の 友人から「君のお母さんはテンネン!」と言われていたらしい。もっと上手に育ててやれ なかったのかと済まない気持ちが湧いてくる。三十八歳といえば今から三十八年前だ。あ れから丁度二倍を生きてしまった。だが、私の感受性はほとんど変わらないような気がし ている。前回に引き続きもう少し書き写しておこう。
一九八六年三月一日
 三年前の今頃、私はどんなに悩んでいたことだろう。夫は四十四歳、私は三十五歳、上 の子たちはもう小学校上級。それなのにまたゼロからやりなおしなんて。それでも病院で 妊娠と言われたときは自分でも驚くほど嬉しかった。自分にしがみついている、子宮の中 のちっぽけな命がいじらしくて、愛おしいのだ。泉に水が湧くように、嬉しさがあとから あとからこみ上げてくるのだった。それでにこにこしながら家に帰った事を覚えている。
 お金もないし、前途はまるで見えない。それでも私は産んでしまった。
 今その子が二歳。夜、布団の中でやわらかな頬をすりよせてきて、「お母ちゃんがしゅき(好き)なの」と言ってくれる。今の私は、着たきり雀、斬バラ髪のやまんば状態。本当に楽しみと言ったら本を読むことのみだけど、子供たちが可愛い。子供こそこの世で一番の贅沢かもしれない。
三月十一日
 アレックス・ヘイリーの「ルーツ」は文字通り本を置くことができない程面白かった。
この直前に、スタイロンの「ナット・ターナーの告白」を読んだ。しかしやはり、黒人自 身の眼で書いたものにはかなわないだろう。
 特に上巻、アフリカのジュフレ村でのクンダキンテ少年の生活は面白い。アフリカの土着民こそ、最も厳格な礼儀作法と格式の世界の住民である。代々伝わる文化の古さから言ったら、日本の比ではあるまい。これだけ詳細に少年時代とその主人公をとりまく人々が 描けているからこそ、拉致された後の悲嘆が生きて伝わってくるのだ。
三月二十一日
 長男にバイオリンを辞めさせようと思って先生に手紙を書いて持たせようとしたところ、長男は大変悲しんでそれを破いてしまった。(辞めさせるのは夫の強い意見だ。)長男いわく「五歳の時から習ってきたんだよ。あの先生にももう会えなくなってしまうじゃないか!」と。そこで私が夫を説得した。人間とのつながりをぷつりと切ってしまおうとしたのはいかにおかしなことであったか。本当に長男の言う通りだと私も思った。本当のところ私はほっとした。これでこそ我が子だと思って嬉しかった、三年生になったら受験のために一時休むことで納得させる。
 長男は今日中学の卒業式で、音楽部に臨時に加わってビオラパートを弾いた。その練習の第一日めに彼は家へとても興奮して帰ってきて、「とにかく凄いんだ、快感なんだ、実に素晴らしいよ、みんなと弾くのって!」と言った。このことこそ、私がずっと思ってきたことだった。一人のレッスンはいつの日か大勢の中で一緒に弾くためのものである、ということだ。
 幹ちゃんは通り(桜堤団地の中の店の前)に坐っている白と灰色の猫を見つけた。その猫は他の猫と違って幹ちゃんが近づいてもいっこうに動かなかった。そこで幹三はどんどん迫ってゆき頰と頰がふれあいそうになったがそれでも猫は目を細くしてじっとしていた。幹三は色々話した。「このネコちゃん、ライオンさんが来るとにげるよ」「このネコちゃんのお耳かわいい」「このネコちゃん、ウサギが来ると、一緒にあほぼ、(遊ぼう)あほぼ、言うよ」
 幹三の心の世界にはたくさんの動物たちが生き生きと住み着いているらしい。
十月十五日(幹三 三歳と一日)
 「幹ちゃん、昔ごろ、お砂場 しゅきだったよ」。
 「お父さんずっと前、おじいさんだったころ、帰ってきた?」
 「おばあちゃん、大きくなったら、自転車にのれる?」
 「おばあちゃんは乗れないの。カンチャン、乗せて」(おばあちゃん)
 「いいよ、三輪車でもいい?」
 「このバナナ、どこで採れたの?」
 「南の、あったかい海の、島で」(わたし)
 「そこの、コーエン?」
 「ちがう。ジャングル。森よ。そこに木がはえてて、一杯なってるの」(わたし)
 「そこで、トラが、バナナをくれたの? ガーウ、バナナ、あげましゅ、っていったの?」
 「そうよ」(わたし)
 「やおやさんで買ったんでしょ、このバナナ」
 「ちがうわよ、トラさんがくれたのよ」(わたし)
 「やさしいね、トラ」
 本人はちゃんとバナナを買ったことを知っていて、なお面白がって会話を続けている。

 十月 本をずいぶん読んだ。フォーサイスの『戦争の犬たち』藤原ていの『流れる星は生きている』臼井吉見の『事故の顛末』植村直己の『「極北を駈ける』
 どんなに面白いエンターテイメントでもミステリでも残念ながら一度わかってしまったらそれ迄という気がする。だから私はいまだにフォーサイスもクリスティも読んだことのない人が羨ましい。
 今、もう一度読み返したい本は、『風のような物語』(ヴァン・デル・ポスト)である。物語とはいえ、たとえばトールキンの『指輪物語』とはその本質を異にしている。『風のような物語』は、そのプロットが主人公の少年の自己形成であるという点において、際立っている。人生の半ばをこえつつある私が、まだ自己形成などということにこだわっていたら、人は、おかしいと思うかもしれない。しかし白状するなら、まさに私は自己形成しきれなかったことを痛感している。そしてポストのこの物語は、驚くべき内省力で、その問題を私につきつけてくる。それから、この小説の舞台となったカラハリ砂漠の風土は日本とはおそらく考えられる限りのあらゆる点で、異なっている。その風土の異質性、および、文体の力。

終わりに
 古いノートを処分する前にいくらか入力出来た。エッセイの会のメンバーが私の古い記録を読んでなにがしか共感してくれることを願う。どこにでもいるようなありふれた生活者、貧しい主婦であった三十八歳の私。てんやわんやの子育ての中に、アフリカの物語などが織り込まれている。庭に咲いていた木槿(むくげ)の花は天に向かって捧げられた花束みたいに放 射状に枝を伸ばしていた。その下には犬小屋があったっけ……。
  
  残年をまさめに見ればこの世とはいかなる処ただに愛しき
2023・9