紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

 

 渡辺良は結社未来の多くの歌人達から支持を得ている手堅い歌人だが、このエッセイ集『バビンスキーと竹串』(かまくら春秋社)は医師としての実体験を中心に書かれている。病院勤務医から開業医になって十年目、平成二十二年十二月に出版。
 「破れた畳の隙間から、カヤツリグサが生えている古い小さな家で、『早く楽にして』と言いながら、私の訪問を待つ寝たきりで一人暮らしのTさん。レスピレーターをつけて七年、足の指のわずかな動きで、『ソロソロワタシニクギリヲ』とコンピューターを打つALSのUさん。このような人たちに向き合いながら私は、横浜の下町の狭い路地を今日も歩いている」(「町医者は考える」)レスピレーターとは、人工呼吸器のことである。この本はこのような切実なエピソードに満ちていて、シュビング夫人の『精神病者の魂への道』やカロッサの『ドクトルビュルゲルの運命』を想起させる。
一人一人の死が、闘病が、このうえなく大切に語られているのだ。機械に囲まれた大病院での慌しい無名の死ではなく、在宅診療による、固有の、尊い生と死がここにある。
 
 集中の圧巻は患者さんとの会話による七十八行の詩だ。患者さんの寂しさが染み入るほどに受け止められているその詩は、次のように終わる。
 「せんせい。/ハイ。/かえっちゃうの?/そう。/……/寂しいの?/さびしい……。/もうすぐヘルパーさんが来ますよ。/そうね。/また来るからね。寒くなるから気をつけて。/はい。/ふとんをもうすこしかけとこうか。/いいです。/……せんせい……。/はあい。何ですか。/……なんでもないの……。」(「なんでもないの」) 
  
 渡辺良は七代にわたる医師の家系に生まれた。「さかのぼると江戸時代の半農半医であった渡邊玄泰まで行き着くと聞かされた。玄泰は当時の圧政に苦しむ農民とともに起ち、、捕らわれ獄死したことも知った」父親の営む「渡邊醫院」を引き継いだ彼は、外来診療のほかに在宅診療を精力的にこなす。十年間に在宅で看取った患者さんは二百人という。多くの印象深い死に出会い、その一人ひとりの物語に静かに寄り添い、耳を傾ける。読むほどに私は作者は医師であると同時に優れた傾聴者であることをつよく感じた。たとえば、カルテについて次のような興味深い記述がある。「…診療所では、はじめの『いかがですか』に対する患者さんの応答に医療面接の鍵がある。そこには今具合の悪い症状だけでなく、対話を通して明らかになる生活の様子や人生観なども記載されることが望ましい。そのことによって患者さんの病(illness)を浮き彫りにすることができ、疾患(disease)だけを見がちな医師の陥穽が修正される。(略)聴く耳をもつこと、そしてこころをオープンにしておくこと、そうすることで物語は語られ、病の意味が明らかになる」(「究極のHow are you?])

 さてこの本の一風変わったタイトル「バビンスキーと竹串」は、同じタイトルのエッセイからとられている。若い頃ロンドンの国立神経病院に留学していたときの逸話がおもしろい。彼はそこで、バビンスキー徴候という神経徴候の一種について、「これがいかに重要かつ深遠なもの」であるかを学ぶのである。薄暗い階段教室の正面の診療ベッドに寝かされた患者の足の裏を世界的に有名なneurologist(=神経学者)たちが代わるがわるこする。その時、親指が上を向いたか、下を向いたか、などと議論する、という滑稽な場面が続く。教科書では鍵の先を用いるとか、針で刺激するなどと書かれていたが、作者は帰国してから、焼き鳥用の竹串の尖っていないほうの先がとても良いことに気づく。かくて病院回診する作者の白衣の胸ポケットにはいつも束にした竹串が入っていて、研修医たちが怪訝そうに見ていたというのである。ある道具がぜんぜん別の用途に用いられるということが、示唆に富んでいる。私はそのような道具の使い方をする人間の柔軟さが好きなのだ。道具は、その本来の使い道のなかに鎮座ましましている状態が通常のありようなのだが、違った目的を課せられた状態になるとき、俄然、人間の想像力の働きが際立ってくる。
この短いエッセイにはそんな輝きが感じられたのだ。

 この本の中に語られている死は、それぞれに実に多様である。中でも神経難病ALSの患者さんは、全身の神経が麻痺しても精神状態は最後まで保たれるので、人工呼吸器を付けるか否かの決断も、本人の意志で決断することになる。誰もがそのような病気になるとは思わない。誰にとっても「これにかる人はみな始めてである」。闘い方もそれぞれに異なる。運動麻痺が進んで食事がとれなくなり呼吸もできなる時、機械によって生きるのは「サイボーグ的」であるからと、緩和的な治療のみによって終末を迎える人がおり、また一方には一切の自発的な意思表示ができない状態となっても人工呼吸器などによって命をたもち、家族に見守られつつ生きながらえている人もいる。この人々に向かって作者は思う。「わたしに今できることは、なにが正しいのかなどという傲慢で浅薄な判断を捨てて、ただひたすら心をひらき耳をかたむけることではないだろうか」と。
 また、ひとりの若い女性の死がとても印象深かった。その人は糖尿病だったが異常に体重が増えてきて、総合病院を紹介されて腹部CTを撮ったところ、大量の腹水を伴う巨大な卵巣腫瘍であった。もはや尽くすべき治療法はなく、どこの医者にも「往診も緩和ケアもできない」と断られて作者のところへ回されてきた。訪問してみると、畳の部屋に側臥位のまま全く動かずにいて、挨拶をすると、部屋の隅をみつめたまま暗く疲れた表情で、「せんせいどうもありがとうございます」と言う。いくつかの質問にも、「はい」「いいえ」と短く答えるのみであったが、唐突に彼女は「せんせい、わたしおくれているんです」と言う。それは精神遅滞であるという意味だった。作者は一瞬虚をつかれるのだが、「大丈夫ですよ、心配しないで」と言う。患者さんは、枕元にこぐまのぬいぐるみを置いて、時々話しかけているようだった。
 緩和ケアについて家族や訪問看護師らと話し合い、ベッドを入れる。数人がかりでこの太った、というよりは多分、膨らみに膨らんだ患者さんを抱え上げてベッドへうつす。
 この患者さんは自分の病気のことは何一つ問おうとせず、具合を聞くと「だいじょうぶです」「はい」とか、「いたいです」などと短く答えるのみであった。作者をちらっと見てすぐに目の前の壁に目をそらしてしまうのだった。そんな時、作者は思う。「わたしは彼女の世界に届いていない」と。そしてさらに思うのだ。「苦しくて我慢ができないと、彼女に叫んでほしかった]と。
 彼女が亡くなったあと、作者は思う。「ふとあのフェリーニの『道』を思い出した。わたしの意識のどこかで、彼女がジェルソミーナと重なっていたのだ。ただ看取ることしかできなかった医者のかたわらを、ひとつの無垢なたましいが、誰に怒りをぶつけることなく、苦痛の声をあげることもなく、こぐまのぬいぐるみに頬ずりしながら、静かに去っていった」。(「もうひとりのジェルソミーナ」)
 
 ある作品では手話のボランティア女性の、危篤状態の患者さんに対する仕事ぶりを次のような散文詩としている。
 「そのしなやかな手のうごき 何かを伝えようとする口のかたち かすかにもれる声 呼びかける視線 反応がいつもとちがうと知ると おのずからあらわれるしずかなかなしみの表情」 あくる日、患者さんは亡くなる。散文詩は次のように語る。「この廃屋のような家の うすぐらい廊下の片隅に しずかに涙をぬぐう ひとりの若い女性がいる 私はいま レンブラントのいくつかの絵をおもう そして不意に ”魂の仕事”という言葉が浮かぶ」
 
 私には、これらのエッセイそのものが、まことにたぐいなき「魂の仕事」なのだと思われた。
 最後に渡辺良の短歌を二首ほど引いておこう。
  アレキサンドリア口に含めばはろばろと深き眼窩を帰りゆく鳥 
  外側に在ることつねに内側を深くしずかにおりてゆくため  
渡辺良歌集『受容体』 より
                二〇一四年五月